浄明寺はJR 鎌倉駅からは金沢八景や大刀洗方面のバスで20分ほど、浄妙寺バス停で下車、降りた側のすぐ左手に参道があります。100メートルほど進むと山門があります。この参道は春には桜のトンネルとなります。
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| 本堂 |
下馬塔を左に見ながら山門をくぐると受付があります。庭の花をみながら進むと独特な屋根の形をもつ本堂が見えます。
本堂には本尊の釈迦如来 、阿弥陀如来、婦人病にご利益のある淡島明神などが祀られています。
本堂の裏手には開山堂(写真右下)があり、中には、退耕行勇像 、藤原鎌足像 、三宝荒神像、伽藍神倚像など多数の寺宝が祀られています。
本堂の裏手には墓地があり、その中段に足利貞氏(1273-1331)の墓と伝えられる宝篋印塔という形式の石塔が立っています。明徳三年(1392)の銘がありますので没した当時のものではないようです。
境内の右手の山中には鎌足稲荷といわれる小さな神社があります。藤原鎌足(614-669)が鹿島神宮に参詣する途上鎌倉に逗留したときの伝説を伝えます。由比の里に泊まって鎌足が見た夢のお告げに従い、鎌槍をこの地に埋めたということです。
「鎌倉」の地名の由来の一つとして伝えられています。鎌足が鹿島神宮に参詣したとすれば、関東や東北地方の経営に腐心してのことともいわれています。
本堂の左手の喜泉庵は平成三年に復興されたものです。天正年間(1573-92)の記録によれば、境内には僧が抹茶をいただく茶堂があり、「喜泉」と呼ばれていたのにちなんで命名されたとのことです。枯山水の庭園を楽しみながら、ゆったりとした雰囲気で抹茶をいただけるようになっています。
境内の左奥にある「石窯ガーデンテラス」は憩いの場所としてお食事やお茶を楽しむことができます。さらに天然酵母を使用した焼きたてのパンも大変人気があります。
浄妙寺は、鎌倉五山第五位の臨済宗建長寺派です。
寺伝によると、鎌倉初期の武将足利義兼(?-1199)が文治四年(1188)に建立したもので、当初は真言宗で極楽寺といいました。
足利義兼は、母が頼朝(1147-99)の母の妹で、終始頼朝の下で活動しました。頼朝の命により政子(1157-1225)の妹と結婚します。あまりにも頼朝に近かったので、幕府草創期の武将が次々に消されてゆくのを見て、出家し難を逃れたといわれています。
出家後は足利に隠棲し持仏堂(堀内御堂)で念仏をして過ごしたといわれますが、
そこが足利学校前身になったという説もあります。
開山は退耕行勇(1163-1241)です。相模国酒匂(小田原)の生まれで真言密教を学びました。鶴岡八幡宮寺の供僧になり、1188年に浄妙寺の開山として迎えられました。
頼朝・政子の篤い信任を受けます。栄西(1141-1215)が鎌倉にくると門下に入り臨済禅を学び、栄西の後、寿福寺の二世になり、さらに建仁寺にも住しました。実朝(1192-1219)は寿福寺の行勇をしばしばたずねます。
義兼の子の義氏(1189-1254)の時、建長寺開山蘭溪道隆(1213-78)の弟子月峯了然 (げっぽうりょうねん:?-?) が住職となって禅刹に改め、寺名も浄妙寺と称したとのことです。足利義氏は北条時政(1138-1215)の娘で政子の妹を母にもち、北条泰時(1183-1242)の娘と結婚し、承久の変をはじめ多くの戦いで手柄をたてました。和歌をよくしたといわれています。
歴代の住持には約翁徳倹(やくおうとくけん:1245-1320)・高峰顕日(こうほうけんにち:1241-1316)・竺仙梵僊(じくせんぼんせん:1292-1346)・天岸慧広(てんがんえこう:1373-1335)などの名僧が名を連ねています。
中興開基は足利尊氏(1305-58)の父足利貞氏(1273-1331)です。当寺に葬られています。
室町時代、足利義満による五山の制が確定された頃は七堂伽藍がそろい、塔頭二十三院を数えました。
その後火災などのため昔の姿は失われました。
現在は総門・本堂・客殿・庫裡があり、境内は国指定史跡です。