第40回 My 鎌倉  
今月のゲスト
橋爪幸臣さん

橋爪 幸臣さん



鎌倉在住60年
長い海外生活で培った経験から
ボランティア活動を引っぱる日々!

NPOセンター理事長: 橋爪幸臣さん


[04.01.23 鎌倉材木座の自宅にて]

はしづめ・ゆきおみさんのプロフィール
昭和9年兵庫県生まれ。商社マンを経て、現在「NPOセンター理事長」 「鎌倉三日会総務担当理事」などで忙しい日々を送る。



■地名考


日本の地方都市で、旧地名の復活を模索する都市がいくつか出てきたようですね。 行政が昔の地名の復活に取り組み始めたのは結構なことだと思います。
地名は古代史の研究の手がかりになるので、古い地名はなるべく残した方が良い と思いますね。

欧米の番地は道路の名前から付けられることが多く、とてもわかりやすい のに対し、日本では、ブロック単位で地名が付けられたり、四つ辻が地名になった りして住居を探すときにわかりづらいですね。

鎌倉でも、古い地名が廃止され、バス停とか、町内会、自治会の名前でしか古い 地名が残っていないのは残念なことです。
このあたりも、昔は、乱れ橋と材木座の二つだったのが、材木座何丁目というふ うに統一されました。 復活運動でも興こしますか?(笑い)

■駐在員生活


私は、商事会社に勤めて居りましたので、海外駐在員生活が比較的長かったのです が外交官の海外畑の方の海外生活にはとてもかないません。(笑い) それでも、サラリーマン生活のおよそ四割は外地勤務でした。

当初の担当が旧共産圏で、モスクワ、ブカレスト ベオグラードなどに赴任し、 その後、ウイーンから、アメリカ(ニューヨークとワシントン)の駐在になりまし た。

「海外生活当時の家族」 どの国にも思い出があり、その国々の良さがありますが、子供たちは自分の 育った国が特に懐かしいらしく、帰国した後、すぐにユーゴに戻りたいと言っ たりしました。スラブ系は母系社会で、3世代同居が一般的で、特に子供を猫可愛がりする ことも影響したのでしょうか。(笑い)

ヨーロッパでは、建物の階数の数え方が日本と違い、一階は数えず、中二階も数えず、日本の三階を一階と言ったりするので、住居探しの際うっかりすると大変なことに なります。
当時は、エレベーターの無いビルも多く、エレベーターがあっても、例の蛇腹式 の手動の扉を開閉してからゆっくりと上昇するタイプのエレベーターです。 こういった条件を十分承知して住居を探すわけです。(笑い)

でも、主な都市では職住接近が当たり前で、遠いところでも20分ぐらいの通 勤時間だったでしょうか。

■海外での子供の教育


共産圏では、子供はアメリカンスクールで学びました。 日本人が20〜30人しかいない国では、当時は日本人学校は有りませんでした。 先生が、外地で教えるのに、年金その他で不利になり希望者が少なかったと聞いて います。

今では、主な都市では殆どの場所で日本人学校が開かれているようです。

■気候風土の違い


食生活も、家屋も、労働の仕方も、世界各地で非常に様々な形態がありますね。

イスラム教では、豚肉を食べませんが、これは中近東には木が少なく、肉を加熱 調理しないで生で食べるため、ジストマなどの寄生虫を避けるために反芻しない 獣の肉は食べない方が安全だというところからきたと言われています。

南方ではバナナなどがすぐに収穫できるので、食に気を遣わず、家も雨をしのぐ 程度のもので良いのに反し、バルト海とか北の方は、人が作ったものしか食べるこ とが出来ず、家屋も温度管理が非常に大事になります。

農作物は日照時間に関係するので、陽の照っている間は猛烈に働きますが、夜や 冬はどう努力しても収穫に関係ないので、ほとんど労働しないと言う習慣になって しまったのでしょう。

日本人的勤勉さが通じない土地柄がたくさんあり、多様性に驚かされます。

「橋爪氏」 これは笑い話で良く引き合いに出される話ですが、ブラジルやインドネシアでは 日本式の農業が通用しないのですね。(笑い)
日本の農業では、畑の雑草をきれいに抜き取るほど良いとされますが、彼らは雑草 を茂らせておくそうです。それは、収穫を迎えたときに雑草が茂って穀物が見えな いので、鳥たちに狙われることが少なく、雑草をすっかり抜き取った日本式農業は 良く稔っても鳥に全部食われてしまうという話です。(笑い)
渡り鳥は狙うなんという生易しいものではありません。一日で洗いざらい食い尽 くします。

日本では、努力が報われるということで勤勉さが大切とされてきましたが、土地 土地にあったいろいろのやり方があるのですね。(笑い)

■神戸の生まれ


神戸で生れて、JR芦屋駅の南に住んでいました。その後御影に越したりして、 戦争中は岡山でした。

終戦の年に鎌倉に引っ越してきて、第一小学校に6年生で入学しました。 父が東京に転勤になったからで、当時焼け残ったところと言えば鎌倉ぐらいだった のでしょう。(笑い)

■家の補修


この建物は、夏用の別荘だったそうです。 玄関の脇に、もの入れの部屋があり、夏に不要の建具や住んでいないときに使う雨戸などを収納する 場所だったそうです。

この家が建ったのは昭和4年だそうです。当時は不況で、宮大工の仕事がなく、鎌倉 に行けば仕事があるということで、多くの大工さんが押し寄せ、鎌倉の家を建てた んだそうです。(笑い)この家もそのうちの一軒なのでしょう。

いくぶんくたびれてきていますが、新建材の家に住む気になれず、自分で補修しな がら住んでいます。 修理するとき部品がないので、そのままになっているところもあります。(笑い) 金属製品は輸入品が多く、門や扉の蝶番は今では鍛冶屋に造らせなければならないと友 人が言います。

■ボランティアのきっかけ


最後の赴任地のワシントンから戻るとき、駐在員仲間のお子さんから、「おじさ ん、日本に戻ったら何をするの?」と聞かれ、その子にボランティアをするよう 奨められました。
それがきっかけで、ボランティアを始めるようになったのだと思います。 鎌倉都民が鎌倉市民に目覚めたのでしょうか。(笑い)

■通勤時間と残業時間


日本は、通勤に時間がかかりすぎ、現役世代がボランティアするには不向きと 思います。また、残業が多いことも、現役の男性のボランティアが少ない理由だと思います。

欧米では、職住が接近しているのが普通で、通勤は20〜30分ぐらいですが、 日本は1時間半というのが普通でしょう。
これは、借地借家法によって、貸家が減って、職住接近がこわれ、長距離通勤が一般的になったからだと思います。

また、一部の幹部社員を除いては、残業も転勤もないのが普通です。
残業はおろか、フランスでは年次休暇をずらして欲しいというと、辞めてしまう のが常識です。

家族と過ごす時間を大切にするのが欧米流ですね。

■真の地方の自治


「家族の肖像」 ニューヨークの駐在員時代に、私は、ニューヨークの郊外に住んでいました。 ここは人口35,000人位で、ほとんどの人が地元に勤めていました。
ニューイングランド地方の伝統を受け継いで、自治意識が強い土地柄で、税金 はなるべく払いたいくない。
「税金を上げるよりは、自分たちがボランティアで行う」ということが一般的で した。

例えば消防署員はボランティアで成り立っていました。

汽笛の鳴らしかたで第何班が集合するか決まっているようでした。緊急時ではなくても、 仕事をほっておいて消防署に集まり、放水ノズルを磨いたりしている・・・  こういう、ボランティア活動が認められる土地柄でした。(笑い)

■家内が小学校の教師に


この土地で、ある時、教育の補助金が減らされました。
教師を雇う金がなくなったので、税金を上げるかどうか協議され、住民はボラン ティアの先生探しをしたのです。

家内は日本の教員免状をもっていたので、目出度く小学 校の先生になり、「ティーチャー! ティーチャー!」と大変もてはやされました 。(笑い)

もちろんカリキュラムは正規の先生がつくり、ボランティア教員は、二・三人で 正教員一人の仕事を受持つという仕組みです。

このような、自分たちで出来ることは自分たちでやって行こうという気風の背景には荒野を協力して開拓して来た歴史があります。
村を建設し、それが発展して町になると、学校や教会・裁判所・警察などが役割として 必要になり、生活のルールが出来上がって行くわけで、 「自治の領域の意識」が深いのではないでしょうか。

■ボランティア活動


「鎌倉三日会の五十年」:創立50周年記念誌 いま、私は、(NPO法人)鎌倉市市民活動センター運営会議鎌倉三日会の仕事をお手伝いしています。

(NPO法人)鎌倉市市民活動センター運営会議(通称「NPOセンター」)は市民活動 を立ち上げるためのお手伝いをする組織です。


鎌倉市役所のトンネル側と大船に事務所があり、市民活動のための情報提供、会議場所の提供や印刷機・コピー機の利用などで、みなさまのお役に立てばと考えています。

鎌倉三日会は創立53年になる団体で、長い間鎌倉と鎌倉市政を見守ってきた団体 です。

どちらも、私のお役に立てる範囲でお手伝いさせていただいています。


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