第51回 My 鎌倉 | |
今月のゲスト |
山中 ひとみさんカンボジア古典舞踊家 |
やまなか・ひとみ さんのプロフィール |
カンボジア古典舞踊家
お茶の水女子大学哲学科美学美術史卒業 1993〜1995年 タイ王立舞台芸術学校チェンマイ校聴講生 2003年 カンボジア王立プノンペン芸術大学付属芸術学校古典舞踊科5年課程卒業 当時の文化芸術大臣ポッパー・デヴィ王女より古典舞踊を教える許しを得る。 奉納舞踊をライフワークとする一方、愛・地球博カンボジア館閉幕式などの舞台を務め、ワークショップ、講演活動なども行っている。 |
■自分探し 私がカンボジア古典舞踊をライフワークにするまでには随分と長い時間がかかりました。 私は高度成長期に生まれ少女時代を過ごしました。 大きいことはいいことだという時代で、物やお金が大事にされ、学校では管理された個人主義がいきわたっていました。 一方家庭では、明治生まれの祖父をお手本にしている戦中生まれの父と良妻賢母型の母とで、古風で精神主義的な家風を築いていました。 この世の中と家庭の間のギャップは私にとって大きなストレスで、自分の居場所がどこにもないように感じていました。 自分が自由に行動できる年齢に達したとき、世の中はバブル景気でしたが、私の中には「人はどこからきてどこへ行くのだろう?私はどこに拠って立つのだろう?」という深い孤独感、喪失感がありました。 そんな気持ちがあって、青春時代には詩やロック音楽にのめり込みました。 大学を出て、一時、福祉職に就きましたが、20歳代の私には、頭で判っていても相手と大きな気持ちで接するということが苦手でした。 ■カンボジア古典舞踊 そんな中で、沖縄の伝統芸能に出会い、「これが私の行く道」という、腑に落ちるものがあり、以後その延長線上を歩んでいます。 沖縄の伝統芸能は、祖先を敬う野邊の送りなど、芸能が商業や権威とは関係ないところで自然や人々の人生とつながっており、その様に深い感銘を受けました。 少女時代に日本舞踊を習っていましたが、今思うと、日本舞踊も最初の頃からお稽古を楽しんでいましたね。 しかし、沖縄の伝統芸能からカンボジア古典舞踊にたどり着くまでの道のりは決して平坦ではありませんでした。 西表島での三線の手習い、東南アジアでの放浪の旅、タイ王立チェンマイ舞台芸術学校での日々、ビルマ民主化運動渦中の学生との出会いと別れ、などいろいろな出来事がありました。 カンボジア古典舞踊に初めて出会ったのはチェンマイでタイ舞踊を習っていた頃でしたが、これをライフワークにしようと決めたのは、両親と永別した後、カンボジア芸術大の先生が、公演前に踊りで身につける仮面にお線香で魂を入れている光景を見たときでした。 ■カンボジア古典舞踊の歴史 カンボジアの古典舞踊の歴史について興味ある方は下記のボタンをクリックしてください。 ■何が私を呼び続けるのか? 私は舞踊家を志しながら、心に深く残っているものはお金を払って劇場で見た芸能では決してないと思っています。 胸の底深く私を呼び続けるものは、 などです。 (2003年・在カンボジア日本大使公邸) それらが、幼少期から淋しく感じていた私に「魂の故郷」という感覚を呼び起こすのだと思います。カンボジア古典舞踊という目標は見付かり、芸術大学に入学することが出来ましたが、その時もいくつかの試練が残っていました。 一つは言葉の壁。 もう一つは年齢による身体の柔軟性の問題でした。 特に身体訓練に関しては、当時1日に6時間の稽古をしていました。 今でも1日に2時間は稽古するようにしています。 内訳は、柔軟が30分、長い練習曲が1時間、新曲や舞台のリハーサルが30分です。 ■鎌倉に住む 鎌倉に移ってきたのは最近です。 2001年に母が亡くなって両親の住んでいた東京とは縁が切れましたが、その時はプノンペン芸術大学で舞踊の勉強をしていました。 カンボジアの学校を卒業して日本に戻り、どこに住もうか?と考えたとき、若い頃から好きだった鎌倉や稲村ヶ崎の海が心に浮かびました。 結局、稲村ヶ崎でなく北鎌倉に住まいを移しました。 海にも近く、自然が沢山残っていて、寺社などの古い伝統にも囲まれ、自分の居場所が見つかったような気がします。 ■鎌倉での公演が増えました (2005年・浄智寺書院) 鎌倉に住むようになって鎌倉での公演が増えています。■カンボジア舞踊サークル「SAKARAK」 最近になって、カンボジア舞踊サークル「SAKARAK」を立ち上げました。 場所は東京の飯田橋です。 SAKARAKというのはカンボジア語でお供え物という意味です。 民衆舞踊、民俗舞踊、古典舞踊を教えています。 私の目標 私の当面の目標は そしていつか、 です。
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