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■生い立ちとその軌跡--研究・著述活動など 私は考古学発祥の地といわれる大森貝塚の近くで生まれ、鎌倉で育ちました。 中学時代に鶴岡八幡宮・頼朝の墓・荏柄天神などを毎日見て、鎌倉の歴史に興味を持ちました。高校時代には歴史関係の本に夢中になりました。 大学では日本史を学び、歴史の勉強は一生続けたいと思いました。そして鎌倉の歴史についても勉強を始めたときに、鎌倉市教育研究所から『かまくら子供風土記』作成の依頼を受けて、鎌倉の寺社や古老を訪ねるとか色々な文献を調べました。
さらには『鎌倉市史 考古編』(鎌倉市発行)に協力したりして、鎌倉の歴史や文化財・史跡についての知識を持つことができました。 長年教師を勤めた湘南高校や新設の大船高校では、主に日本史を教えましたが、その傍ら教員や専門家などと日本史の舞台と成った全国の史跡にとどまらず、広く世界史に関連の深い世界中の代表的な史跡を回り、研鑽につとめました。 そのうちに、研究対象が神奈川県の歴史に広がり、『神奈川県史』(発行 神奈川県)の調査に協力し、『神奈川県の歴史散歩』(山川出版社)・『神奈川県の歴史百話』(山川出版社)・『郷土史事典神奈川県』(昌平社)、『神奈川県百科事典』(大和書房)・『神奈川の百人』(神奈川合同出版)などを分担執筆しました。
鎌倉の史跡めぐりも長年手掛けましたので鎌倉市観光協会の名所案内のパンフレットや地図も作成しました。 |
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■鎌倉での歴史研究活動の成果
私の長年の研究成果の一端は、前述の著述に出ていますが、一例を考古学の分野でご紹介しましょう。 『鎌倉市史 考古編』などに記載されていますが、学生時代からの研究活動を通し、鎌倉市やその周辺で、縄文〜古墳文化に及ぶ多数の遺跡を発見しました。特に横穴墳墓とその関連遺跡は大船・深沢・腰越辺に多数ありました。残念ながら宅造などで破壊されたものもかなりあります。
歴史学の分野では、各地域の歴史の解明につとめ、多数の社寺の縁起・古文書・文化財・文献を総合的に見たり、歴史上の事実や人物についても文献を集めて、客観的な史実を明らかにして色々著述してきました。 古文書では中世だけでなく、近世の「平井家文書」(小袋谷)・「内海家文書」(手広)や社寺の文書なども発見しました。 発見した文化財は「史跡めぐり」などで、紹介することもよくあります。
■鎌倉の世界遺産登録に向けての活動 現在、私の活動の柱のーつは鎌倉を世界遺産に登録することです。 私は「鎌倉の世界遺産登録をめざす市民の会」の推進委員として、1998年から春・秋2回の鎌倉の歴史見学会の講師と、翌年から年2回の世界遺産に関するシンポジゥムの企画・実施を手伝ってきました。 2007年7月には、鎌倉市と70近い市民団体が「鎌倉世界遺産登録推進協議会」(養老孟司会長)を発足させ、私は広報部会長として『武家の古都・鎌倉ニュース』を発行したり、『武家の古都・鎌倉MAP』を作って、鎌倉の世界遺産登録の理解が少しでも深められるよう活動しています。
「武家の古都・鎌倉の独自性」については下記のボタンをクリックしてください。 私は鎌倉の世界遺産登録は、それが最終目標ではなく、将来への鎌倉の町作りの出発点だと考えています。 私達市民は「まず自ら鎌倉の歴史や文化を学び、世界遺産登録を契機に、誇りを持って史跡や景観を後世に伝えていける町作り」を実践していかなければいけないと思い、色々な活動を行っています。
■ウォーナー博士と鎌倉 私が25年連載している「江ノ電沿線新聞歴史散歩」は、江ノ島・藤沢編に続いて、現在鎌倉を執筆しています。原則として建物や石碑などが残されているものに限定して書いていますが、様々な史実が明らかになりました。 そのーつに「ウォーナー博士と鎌倉」というのがあり、平成16年12月の350号〜平成18年4月の366号まで連載し、色々な反響がありました。 鎌倉駅の西口にある「時計塔小公園」の中に、「ウォーナー博士の記念碑」があります。石碑にはアメリカ人のウォーナー博士の顔のレリーフと、「文化は戦争に優先する」という博士の言葉が記されています。
そこには、日本の古美術に造詣の深かったウォーナー博士が太平洋戦争で、日本の三古都(奈良・京都・鎌倉)を始め全国の芸術的歴史的建造物には、戦禍が及ばぬように強く訴えたため、日本の多くの文化財は爆撃を免れた。鎌倉の古都保存法20年にあたり、この記念碑を建てるというようなことが記されています。 ところがウォーナー博士の業績を否定する見解が出されたことがありました。そこで私は博士に関する資料をつぶさに調べ、博士がアメリカの爆撃などから日本の文化財を守ろうとしたことを改めて明らかにしました。 ウォーナー博士の活動をより詳しく知りたいかたは下記のボタンをクリックしてください。 ウォーナー博士の記念碑を建てるのには私も理事として協力しましたが、中心となった鎌倉同人会では現在も6月の博士の命日の頃、記念碑の前で献花や読経をして、感謝の気持ちを表しています。 2006年9月には、鎌倉同人会主催の「ウォーナー博士と鎌倉の戦争」という講演会で、私が鎌倉を爆撃から守った恩人としてウォーナー博士の業績を紹介しました。 ■逗子鎌倉の中世遺産を考える会 私は「史跡めぐり」の講師を長年やったり、鎌倉の世界遺産登録をめざして活動していますが、鎌倉時代の古都鎌倉の範囲は、東は横浜市金沢区の六浦で南は逗子小坪ですから、逗子市は古都鎌倉の中です。 そこで私達は「逗子鎌倉の中世遺産を考える会」を作りました。「古都逗子」と呼んでいますが、「古都鎌倉」と同じように、鎌倉の世界遺産登録にも重要な「名越切通」を始め、和賀江島とか神武寺などの史跡めぐりや講演会を実施しています。 古都保存法は逗子にも拡大されていますので、逗子鎌倉一帯の歴史遺産の価値を知り、後世に残したいと活動しています。
■英勝寺山門復興事業について 扇ガ谷の英勝寺は、太田道灌の子孫で徳川家康に仕えて水戸徳川家の祖徳川頼房の養母であった英勝院を開基とし、水戸徳川家の姫君が代々住職をつとめ、現在鎌倉に残る唯一の尼寺として知られています。 ◆英勝寺は江戸初期の名建築が揃っていることで名高い寺で、仏殿・鐘楼・祠堂・唐門など、すべて神奈川県指定重要文化財で、鎌倉を代表する貴重な遺構です。
◆山門は徳川頼房の長子の讃岐高松藩主松平頼重という水戸黄門で知られる徳川光圀の兄が建立したものですが、関東大震災で倒壊し、一時英勝寺を離れていました。 ◆しかし、関係者の尽力により、山門は解体のうえ、部材は英勝寺の境内へ運び込み、再建されることを前提に部材のままで、他の建物同様に神奈川県重要文化財に指定されました。
そこで私達は英勝寺山門復興事業事務局を作り、神奈川県や鎌倉市のご指導を受けながら鎌倉市内外の多数の方のご協力で山門復興事業を進めてきました。 そして花や文化財の多い英勝寺をもっと知ってもらうことと、山門復興基金を募集するため、講演会・文化講座・月見や花見の会など様々な行事を行ってきました。 私も事務局長として、様々な行事を企画したり、寺内の特別拝観の案内、テレビや出版物などでの紹介、講演会(平成18年11月に「太田道灌と鎌倉」の講演)などを事務局の皆さんのご協力で実施してきました。 幸い県・市のご指導・ご援助や関係の皆様のご協力で、ようやく着工のメドも立ってまいりました。 これからも山門復興事業に一層のご支援をお願いします。
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