第67回 My 鎌倉   logo1
今月のゲスト

さん


「鎌倉を歩く」著者


[2010.10.18]
  かわじりゆうじ

かわじりゆうじさんのプロフィール
1936年
1960年

1977年
1991年
2007年
新潟県小千谷市生まれ
日本大学法学部卒
同年 仏教美術研究団体「寧楽会」 設立代表
鎌倉市に移る
神奈川仏教文化研究所設立代表
鎌倉造園業界 会長就任



■ 鎌倉との出会い
 鎌倉との最初の出会いを思い出してみると、 昭和二十年代初め、小学校五、六年の頃だったと思います。 当時、東京の大田区、洗足池の近くに住んでいましたが、 近所に家族ぐるみの親しいお付き合いをしていた絵描きさんがおりました。 この人が鎌倉に詳しく、日帰りで案内してくださることとなり、 その人について家族全員で鎌倉・江ノ島を歩きました。 今考えてみますとかなりの強行ぐんで、朝早くから円覚寺・建長寺など北鎌倉の諸寺を巡り、 由比ガ浜、七里ガ浜、江ノ島弁天窟などを徒歩で回りましたが、 由比ガ浜や七里ガ浜の松が美くしかったこと、 江ノ島からの帰途が夜になってからと記憶しています。

 次に鎌倉を思い出しますのは、高校を卒業した頃です。 その頃、覚園寺や杉本寺などを一人で尋ね回りました。当時の鎌倉は、 鎌倉の寺とは余り縁もなかった若僧でも、古刹のご住職方と接する機会に恵まれました。 関東大震災で崩れたままの十二神将像を、一体ずつ取り出して修理されていた覚園寺の大森師、 一木から観音像を彫り出していた杉本寺のご老師など、 出会うたびに寺の知識を与えて下さる印象深いご住職たちでした。 私が仏像や古寺に関心を持ち出しましたのはこの頃からです。

 またこの頃は鎌倉の山もよく歩きました。沢のような山道を下ってみると、 覚園寺境内奥の、背の高い二基の宝篋印塔に出逢ったり、意味も分からぬままに覗きこんだ やぐら群、山中の坂の途中から現われた、由緒ありげな石段に導かれるまま下り、 やがて人影もない瑞泉寺の庭に入り込み、禅僧の世界に足を踏み入れた感がありました。 古寺や仏像、庭園などを好きになりましたのも、こんなことからと考えます。

 鎌倉と一層御縁が深くなりましたのは、サラリーマン稼業の独身時代、 勤務先で所有していた腰越の海岸ぶちの土地に、飲食店ビルを建築することとになり、 建物ができるまで、夏場は駐車場として使用することとなりました。 当時は土日ともなると、前夜から駐車がはじまり、今のような立派な設備もないため、 200台の駐車の中を、駐車料金徴収のために自転車で追いかけ回りました。 この間、海岸近くの個人宅に下宿していて、腰越の漁業関係者とも親しくなりました。

 この頃、瑞泉寺境内でお茶を点(た)て、水仙の植栽に励まれていた松田農学博士にもお近付きを得ました。 駐留軍の兵士が被っていたような、中折れ帽に似た帽子は「大佛君が僕の服装を見て、 も少しまともな格好をしたらどうだといって、お古のズボンをもってきてくれたんだよ」、 「彼は僕と違って頭がいいから、彼に少しでも近づきたくてズボンの裾を切りとって、頭に乗せているんだよ」。 寺の藤棚の下でポッポッとそんな話を伺いました。 その頃には見掛けなくなった、復員兵のようなスタイルで、東京銀座の私の勤め先の受付に現われて、 「今日は社長はいらっしゃるかい。何しろこんな格好だろう、 あんな偉い人のところへ直接行く訳にもいかないから、都合を聞いてもらってよ。」 そんなお使いをしました。 後で松田博士は大佛次郎さんとは旧制の同級生だったとお聞きしました。


■ 寧楽会のこと
 昭和三十年代、最近の仏像ブームとは異なり、仏像解説の参考書もほとんどなく、戦前出版された本を、 古本屋で見つけてはむさぼり読んだものでした。
 この頃、同じことを考える人がいるはずと思い、月刊誌「旅」の読者欄で会員を集め古寺と仏像の勉強会を 「寧楽会(ねいらくかい)」と名付け、月一回の割りで古寺見学会と講演会を開催しました。 今も後に立ち挙げました「神奈川仏教文化研究所」と共に、各地方の仏像・古寺拝観の見学旅行を年一、 二度開催するなどして、続けております。

 一方講演会は当初月一回の例会として開催しましたが、中でも奈良大安寺を会場に、寧楽会夏期大学として、 全国から百名を超す参加者を集め、 現在では考えられないような大先生方をお招きして大々的に開催しました。

 この時法話を頂戴しました薬師寺の橋本凝胤長老、運営全般にご配慮を頂いた奈良大安寺の河野清晃貫主など、 高僧とよばれた僧侶とのお近付きを得ました。

 東京の月例会では国立文化財研究所の久野健博士など、仏像の権威とよばれる諸先生方の講演を頂きました。 久野博士との御縁はやがて「関東古寺の仏像」 (芸艸堂(うんそうどう)刊)の出版に結び付けることができました。 こうした古寺見学で各地を回る中には、有名寺院でなくても、いつまでも印象に残る仏像や寺があります。 最近では福井県勝山市の平泉寺跡、杉と礎石を残し、一面に広がった杉苔が深い静寂を醸し出す寺址でした。 岐阜県白山の上り口、明治の廃仏毀釈を伝えた石徹白大師像、藤原秀衡ゆかりの虚空蔵菩薩像。 埼玉県毛呂町の桂木(けいぼく)寺の廃庭、茨城県土浦市西蓮寺の境内からの眺望。などなど。 こうした古寺見学の思い出が仏像と古寺の知識を豊富にしてくれました。

■ 鎌倉への転居
 昭和五十二年、 子供たちも学校に通うようになり、藤沢から鎌倉山に転居し、 アットいう間に三十三年ほど経ちました。 それまでは他地域から眺めていた鎌倉ですが、転居を契機に鎌倉の人間になりきろうと思いました。 もともと酒好きのこともあって、まずは馴染みの店を造りました。 そのほとんどが、年配のママさんが経営する常連客専門の店でした。 ここで鎌倉生まれ、鎌倉育ちの地付きの人、大学教授、作家、マスコミ関係の知識人など、多くの知己を得ました。
人生の先輩、著名人方の話を、鎌倉に引っ越してきてよかったなぁと思いながら 、片隅で小さくなって、杯を重ねながら勉強しました。

鎌倉山の風景
鎌倉山ロータリー   江ノ島遠景   ローストビーフの店
鎌倉山ロータリー 江ノ島遠景 風情のある建物


■ 鎌倉造園界のこと
 さらに鎌倉の町の内部に入り込むようになりましたのは、鎌倉の造園業の人達の団体であります鎌倉造園業会の会長職を引き受けてからです。 会社を退職する前年、平成十八年に鎌倉の造園業の会長を引き受けて欲しいという話が寄せられました。 植木も庭についても知識のないことを了解いただいた上で、ボランティアで会長を引き受けることとしました。そんなことからごく僅かではありますが、 部分的に市の動きも少しは耳に入って来るようになりました。

 この団体の設立目的の一つは、鎌倉の造園職の若手育成と技能向上が目的です。毎年十月に開かれる「鎌倉市緑化まつり」には、鶴ヶ丘八幡宮の流鏑(やぶさめ) 馬場の一部をお借りして、まつりの一環として庭園展示会を開催しています。これは神社にふさわしい催事であると、神社からもお褒めを頂戴しております。 (本年(2010年)は十月十七日より十一月十四日まで)。

 競技会は本年で三回目ですが、本年は十一の庭園が技を競っています。一つが八uたらずの小庭園ですが、 小さな庭園そのものが鎌倉の庭園にふさわしい表現と考えています。 開催初日には鎌倉市長にも開会の挨拶を頂き、展示の各造園者から、自分達が作庭した造園の心についての説明を行いました。 造園若手による廃材を活用した「こどもの遊び場」、鎌倉五山を石で表現した「鎌倉五山」、筧(かけい)の音が小学生や幼稚園児に大人気の「竹音」、 筧の音がこんなに幼児を引き付けるとは知りませんでした。石だけで表現した「シックな庭」、池の水に映る月影をイメージした「水鏡」、 景物を生かした「古き鎌倉の庭」「癒しの庭」「涼」「竹を愛でる」、新羅神の「六曲一双の屏風の庭」、下草花を植え込んだ「シャルダンポタジェ鎌倉風」など、 創作工夫と努力の跡が見られ、年々の技術進歩が見られました。 また期間中にはNHKテレビ放映、新聞取材もあって鎌倉の年中行事の一環として定着してきているようです。

 また業会では、市へのお手伝いをかね、明春、要望のあった市内四校の小中学校校庭に、玉縄桜などの植栽を計画するなど、 古都鎌倉の造園技術者の育成と併せ、鎌倉の造園を全国に向けて発信して行く計画です。

 
造園界 展示例(2010年)
竹香 筧
「竹香」 筧(かけい)
展示全作品
造園界 造園界


■  鎌倉を歩く

  1. なぜ鎌倉を歩くようになったか
     最近、世界遺産からみで「鎌倉城」という言葉をよく耳にしますが、 三方を山に囲まれた地形を生かして鎌倉幕府が置かれました。 しかし、平地が少ないので、山際まで利用しており、土地では「谷戸(やと)」とよんでいます。 山といっても海抜150メートルたらずであり決して高くはないが、 何本かの小川が沢をなし、その周囲は思いのほか自然が残っています。 私は最初は仏像拝観のため谷戸に点在する寺院を散策していましたが、 そのうちに山道をたどるようになりました。同好の士とのハイキングをまとめて 鎌倉朝日新聞社に「鎌倉谷戸あるき」として連載、 これをもとに単行本にまとめたものが「鎌倉を歩く」です。

  2. 秘境番場ヶ谷を行く
     十二所(じゅうにそ)の番場ヶ谷(ばんばがやつ)は神社の手前を流れる吉沢川にかかる御坊橋を渡って行く。 少し行くと左手に「瑞泉寺・天園」の朽ち果てた標識があります。 降りてくることはあっても、ここから登る人はまずいません。 そのまま直進すると急に住宅地が終わります。 右手に川がながれており、水音がする。高低差の少ない広場は全体が湿地であり、歩きにくい。 ところどころに板が敷いてある。ここをぬけ上流に進むと山道が途切れて淵にでます。 濡れた岩場を滑らないように注意して進んで行くと道は崖の中段にあり、 川は2〜3m下にある。2本の柱を渡しただけの1本橋を渡る。 周囲はうっそうとした木々に囲まれており渓谷の風情です。夏は緑の木漏れ日がまぶしい。 また、12月ともなれば紅葉が美しい。鎌倉でも有数の場所ですががほとんど知られていません。 登りつめると天園ハイキングコースに達します。
     なお、番場ヶ谷は今はなき月輪寺(がちりんじ)のあったところで、多数のやぐらが残っています。
    番場ヶ谷
    吉沢川 紅葉
    吉沢川 紅葉

  3. 鎌倉のやぐら
     鎌倉の郊外を散策していると、木や草の陰に隠れるようにして、 岩肌にぽっかりと開いた小さな洞窟のような穴を見かけることがある。 これが鎌倉地方に特有といわれる「やぐら」です。 やぐらは2000箇所以上ありますが、覚園寺(かくおんじ)裏山の百八やぐら、 名越(なごえ)切通しのまんだらどうやぐら、 明月院(めいげついん)やぐら、西御門(にしみかど)朱だるきやぐらなどが有名です。

    やぐら [百八やぐらの一部]

■  心を洗う仏像めぐりの旅へいざ鎌倉
  1. 東慶寺の水月観音(すいげつかんのん)
    水月観音 東慶寺のページより引用[許諾]

     高校生の頃、日本橋の三越の展覧会にこの観音像が出品されていまして、 そこではじめて目にしました。 そのとき、優美な像容に見惚れながら「こんなきれいな仏像もあるんだなあ」と思ったものです。 これがきっかけとなって、私は以後しばしば鎌倉を訪れ、熱心に仏像をみてまわることになりました。

  2. 覚園寺の思い出
     覚園寺の十二神将像は、関東大震災で大きな損害を受けて、一度バラバラになってしまったことがあります。 私がはじめて覚園寺を訪れたときは、荒縄でしばってまとめられていた状態だった覚えがあります。 それを、住職の大森老師はご自分でいろいろ調べながら、つなぎ合せ、一躰一躰ていねいに修復して、 今のようなきれいな形にもどしていったのです。老師の寺に対する思い入れや情熱に、私も感じ入ったものです。

  3. 妖艶さを漂わす鎌倉仏
     鎌倉の仏像に共通する特徴を強いて言えば、女性的な像容が多いということです。 まず水月観音がそうですし、 浄光明寺の阿弥陀三尊像も、爪がながく、 顔がやや長めで、女性的な美しさを感じさせます。 西御門の来迎寺の如意輪観音には、女性的なあでやかさが感じられます。 これは鎌倉時代に、 中国・宋の仏像様式の影響を受けたということが大きな要因なのかもしれません。

■  著書

  • 「関東古寺の仏像」(芸艸堂、1976年)
  • 「日本の仏像」(世界文化社、共著、1979年)
  • 「古寺散策」(里文出版、共著、1983年)
  • 「鎌倉を歩く」(里文出版、2004年、 ISBN4-89806-049-8)
  • 「鎌倉仏像めぐり」(pp81-83, 88-91, 学研Mook, 2011年、ISBN978-4-05-605949-6)
■  リンク集






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