碑文
鎌倉七口の一にして 鎌倉より六浦へ通ずる要衝に当り 大切通 小切通の二つあり土俗(民話)に朝夷奈三郎義秀 一夜の内に切抜たるを以て 其名ありと伝へられるも
東(吾妻)鑑に仁治元年(1240)十一月 鎌倉六浦間道路開鑿(かいさく:切開)の議定あり 翌二年(1241)四月 経営の事始ありて 執権北条泰時 其所に監臨(かんりん:監督)し 諸人群集し 各土石を運びしこと見ゆるに徴し
此切通は即ち当時に於て開通せしものと思料(しりょう:推測)せらる
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説明
この坂は、鎌倉七口(ななくち)のひとつです。鎌倉より六浦を結ぶ重要な道で、大切通(おおきりどうし)、小切通(こきりどうし)の二つがあます。土地の人の話では、朝夷奈義秀(あさひなよしひで)が、一夜の内に切り抜いたので、
その名前が付いたと伝えられています。吾妻鑑(あずまかがみ)によると、1240年11月に、鎌倉六浦間の道路を切開くことが決まり、1241年4月に、工事が開始され、執権(将軍の代理職)北条泰時(やすとき)もそこに出かけて監督しており、
多くの人が集まって、土や石を運ぶのを見たことが書かれています。従ってこの切通は、その時に開通したものと思われます。
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