稲瀬川
(いなのせかわ)

 

大正六年(1917)三月建之 鎌倉町青年会


碑文

万葉に 鎌倉の美奈能瀬河と あるは 此の河なり 治承四 年(1180)十月 政子鎌倉に入 らんとして来り 日並の都合 により数日の間此の河辺の民 家に逗留せる事あり 頼朝が 元暦九年(正しくは元暦元 年:1184)範頼の出陣を見送り たるも 正治元年(正しくは 文治元年:1185)義朝の遺骨を 出迎へたるも共に此の川辺な り 元弘三年(1333)新田義貞 が当手の大将大舘宗氏の此の 川辺に於て討死せるも人の知 る所 細き流にも之に結ばる 物語少なからざるなり

説明

万葉集の中に、「鎌倉の美奈 能瀬(みなのせ)河」と書いて あるのはこの川のことです。 源頼朝の妻の政子が、1180年 10月の初めての鎌倉入りの 時、良い日柄(ひがら)に入る ための調整で、数日の間この 川辺の民家に滞在しておりま す。また頼朝は、1184年に弟 の源範頼(のりより)が平家を 討つために出発するのを見送 ったり、1185年に亡き父源義 朝(よしとも)の遺骨を出迎へ たのも共にこの川辺です。 1333年に新田義貞(にったよ しさだ)軍の大将大舘宗氏(おおだち (又は おおたち) むねうじ)が、この川 辺にて討死したのは有名で す。この川の流れは細くと も、多くの物語が秘められて います。
位置
長谷2-8-8付近で、長谷から由比ヶ浜に注ぐ二つの川のうち,東側の川の道路上の海側に建つ


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