碑文
万葉に 鎌倉の美奈能瀬河と あるは 此の河なり 治承四 年(1180)十月 政子鎌倉に入 らんとして来り 日並の都合 により数日の間此の河辺の民 家に逗留せる事あり 頼朝が 元暦九年(正しくは元暦元 年:1184)範頼の出陣を見送り たるも 正治元年(正しくは 文治元年:1185)義朝の遺骨を 出迎へたるも共に此の川辺な り 元弘三年(1333)新田義貞 が当手の大将大舘宗氏の此の 川辺に於て討死せるも人の知 る所 細き流にも之に結ばる 物語少なからざるなり | 説明
万葉集の中に、「鎌倉の美奈 能瀬(みなのせ)河」と書いて あるのはこの川のことです。 源頼朝の妻の政子が、1180年 10月の初めての鎌倉入りの 時、良い日柄(ひがら)に入る ための調整で、数日の間この 川辺の民家に滞在しておりま す。また頼朝は、1184年に弟 の源範頼(のりより)が平家を 討つために出発するのを見送 ったり、1185年に亡き父源義 朝(よしとも)の遺骨を出迎へ たのも共にこの川辺です。 1333年に新田義貞(にったよ しさだ)軍の大将大舘宗氏(おおだち (又は おおたち) むねうじ)が、この川 辺にて討死したのは有名で す。この川の流れは細くと も、多くの物語が秘められて います。 |