木曽冠者義高之墓
(きそかんじゃ・よしたか・のはか)

 

大正十五年(1926)一月 鎌倉同友会


碑文

義高は義仲の長子なり 義仲嘗(かっ)て頼朝の怨(うらみ)を招きて兵を受け将に戦に及ばんとす 義高質として鎌倉に至り和漸(ようや)くなる 爾来(以後)頼朝の養う所となり其女(むすめ)を得て妻となす  後義仲の粟津に誅(ちゅう:殺)せらるるに及び遁(逃)れて入間河原に至り捕へられて斬らる 塚は元此地の西南約二町木 曾免(きそめん)といふ田間に在りしを延宝年中(1673‐1681)此に移すといふ  旭将軍が痛烈にして豪快なる短き生涯の余韻を伝へて数奇の運命に弄(もてあそ)ばれし彼の薄命の公子が首級(しゅきゅう:首)は此の地に於て永き眠を結べるなり

説明

木曽義高(きそよしたか)は、木曽義仲(よしなか)の長男であります。かって義仲は、頼朝の怨(うらみ)を招き、戦になろうとした時、義高を人質として鎌倉に送ることで、ようやく和解することができました。それ以後、義高は、頼朝の世話になり、 その娘を妻に迎えました。そして義仲が大津で殺害されたことを聞いた時、鎌倉を逃げ出しましたが、入間川で捕えられて斬られました。塚は、もとこの場所から西南に約200メートルの所の木曽免(きそめん)という田の間にあったものを、 1680年頃に、ここに移したそうです。旭将軍といわれた義仲は、激しく豪快な短い人生を送り、不運で薄命であったその息子の首が、この場所にて永い眠りを結んでおります。
位置
大船5-15-18,大船むくどり公園の後方に建つ(常楽寺の左側の山道を100メートル程登った山頂に当る)。


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