碑文
此の地は頼朝時代以来 八幡宮供僧(ぐそう:僧侶)の僧舎二十五坊及び別当(僧官)坊の置かれし処なり 彼の別当公暁(くぎょう)が実朝の首を手にして潜(ひそ)みたる 後見 備中阿闍利(あじゃり:規範師)の宅も亦 (また)此の地に在りたるなり
応永中(1394‐1428) 院宣により坊の称を院と改む 戦国の世に至り 鎌倉管領(かんれい)の衰微に共に各院次第に廃絶し 天正の末(1592)に於ては僅かに七院を存せるのみ 文禄中(1592‐1596) 徳川家康五院を再興して十二院となせるが
明治維新後遂に全く廃墟なれり
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説明
この場所は、源頼朝の時代から、八幡宮の僧侶が住む二十五坊区域と、僧官が住む別当坊などがありました。あの実朝を殺し、その首を手にした別当公暁(くぎょう)が隠れたという後見人の阿闍利(あじゃり:規範師)の住居もまたこの場所にありました。
1400年頃、坊の呼び名を院に変えました。戦国時代に入ってからは、鎌倉管領(かんれい)のおとろえと共に各院ともしだいに減って、1592年頃にはわずか7院だけになりました。1600年頃に徳川家康が5院を再興して12院になりましたが、
明治維新の後はついに全て無くなりました。
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