碑文
内大臣藤原高藤十三代の裔(すえ)に重房あり 宗尊親王に従ひて鎌倉に下り 食邑(しょくゆう:禄地)を丹波国上杉荘に賜りて 始めて上杉氏を称せるか 其の曽孫(ひまご)憲顕 管領基氏の執事と為りてより一族勢力を関東に占む 門葉数家 重房五世の孫 顕定 扇谷家を創む 文明の交(1469-1487) 扇谷家六代の主 定 正 賢臣太田道灌を用ひて家声を揚(あ)くるや 世に宗家山内と共に両上杉又は両管領と称す 此の地即ち其の邸址なり
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説明
藤原高藤(たかとう)より数えて、十三代の子孫に藤原重房(しげふさ)という人がおり、鎌倉6代将軍となった宗尊親王(むねたかしんのう)に従って、鎌倉に行きました。そして、京都の上杉に領地をもらったので、名前を上杉としました。その3代後の上杉憲顕(のりあき)は、将軍基氏(もとうじ)の高官となり、一族の勢力は関東に広がりました。さらに重房から5代後の顕定(あきさだ)は、扇谷家を起こしました。文明(1469‐1487)頃、扇谷家の6代目の定正(さだまさ)は、太田道灌を用いて勢力を拡大しました。世間の人々は、山内(やまのうち)家と共に、両上杉または両管領(かんれい)と言いました。この場所がその屋敷の跡です。
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