太平寺跡
(たいへいじ・あと)
大正十年(1921)三月建之 鎌倉町青年会
碑文
太平寺は比企尼寺にして相傳う 頼朝池禅尼の旧恩に報いんため その姪女の所望に聴き 姪女を開山たらしめし所なりと 足利の代 官領(かんれい)基氏(もとうじ)の族裔(ぞくえい:子孫) 清渓尼(せいけいに)の中興する所となれるが天文中(1532?1555) 里見氏鎌倉を歯掠(しりゃく)せる時 住持(じゅうじ:住職)青岳尼(せいがくに)を奪ひて房州に去りてより遂に頽破(たいは:滅亡)せり 今の高松寺は 寛永中(1624‐1644) 紀州徳川 家の家老水野氏が 其の太平寺の遺址を改修せるものなり
説明
太平寺は代々比企一族の尼寺でした。源頼朝が池禅尼(いけのぜんに)の昔の恩義に報いるため、その姪(めい)のために建てさせたといわれています。足利の時代、官領(かんれい)基氏(もとうじ)の子孫である清渓尼(せいけいに)が、さらに発展させました。 しかし天文(1532‐1555年)の時、千葉の里見氏が鎌倉を攻め、青岳尼を房州(ぼうしゅう:千葉南部)に連れ去ってからは、とうとう廃止になりました。その後1644年に、紀州徳川家の家老水野氏が、太平寺跡に高松寺を建てたものです。現在はそれもありません。 位置
西御門1-11-1来迎寺の門前の左の空き地に建つ。