鉄井
(くろがねのい)

 

昭和16年(1941)三月建 鎌倉市青年団


碑文

鎌倉十井(じゅっせい)の一(いつ)なり 水質清冽(せいれつ;清冷)甘美(かんみ:まろやか)にして 盛夏といえども涸(か)れることなし 往昔(昔)此(この)井(の)中より高さ五尺余りの首許(ばかり)なる鉄観音を掘出したるにより鉄井(くろがねのい)と名付くといふ  正嘉(せいか)二年(1258)正月十二日丑の剋(午前2時頃)秋田城介康盛(あきたじょうのすけ・やすもり)が甘縄(あまなわ)の宅より失火し 折柄(おりから)の南風に煽(あお)られ火は薬師堂の後山を越え寿福寺に到り 郭内(かくない:寺領内)一宇(一堂)も残さず焼失せしめ  余焔は更に新清水寺 窟堂(いわどう)若宮宝蔵 同別当坊等を焼亡せしめたること東(吾妻)鑑に見えたり 此の観音はその火炎にかかり土中に埋もれしを掘出したるものならん 尊像は新清水寺の観音と伝へ 後此井の西方なる観音堂に安置せられしも  明治初年東京に移せりといふ

説明

鎌倉十井(じゅっせい)のひとつです。水は清んで甘みがあり、夏でも枯れることはありません。昔この井戸から高さ1.5メートルの鉄の観音像の首の部分が掘出されたために鉄井(くろがねのい)と名付けられたといいます。1258年1月12日の午前2時ごろ、 秋田康盛(あきたやすもり)の甘縄(あまなわ)の自宅より火を出し、おりからの南風にあおられて、火は薬師堂の後ろの山を越えて寿福寺(じゅふくじ)にまでおよんで、寺の建物は、一堂も残らず全て焼けてしまいました。火はさらに新清水寺(しんせいすいじ)、 岩堂(いわやどう)、若宮の宝物殿、宿坊(しゅくぼう)まで及び、焼き尽くしたことが、吾妻鑑(あづまかがみ)に書かれています。この観音像はその火事の時に、土の中に埋まったものを掘り出したものと思われます。観音は新清水寺のものと伝えられるため、 後にこの井戸の西にある観音堂に安置されましたが、明治の初めに東京に移されたということです。
位置
雪ノ下1-8-20,茶房びぜんの角で,T字路の東南角に建つ。


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