碑文
堀川館に義経を夜襲し利あらずして死せし者 是土佐坊昌俊なり 東(吾妻)鑑文治元年(1185)十月の条に 此の追討の事人々に多く以て辞退の気あるの処 昌俊進んで領状(承諾)申すの間 殊に御感(感歎)を蒙る 巳(すで)に進発の期に及んで御前に参り
老母並に嬰児等下野(しもつけ)の国に有り憐憫(れんびん:憐情)を加えしめ給ふべきの由之を申す云々 とあり 其の一度去って又還らざる悲壮の覚悟を以て門出なしけん此の壮士が邸は 即ち此の地に在りたるなり
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説明
土佐坊昌利は、堀川の館にいる源義経(よしつね)を夜におそいましたが、逆に殺されてしまいました。吾妻鑑(あづまかがみ)によると、この事が次のように書かれています。義経を討つ者を募っているとき、みんな辞退したい気持ちであったところに、
この土佐昌俊が進んで引き受ける旨申し上げると、頼朝は、大層喜びました。そして、出発の間際に頼朝の前に参り、自分には年老いた母や幼い子供たちがおり、下野(しもつけ:群馬)の国に残して行きますので、
もしもの事があれば情けを掛けてやって欲しい旨申しあげた、などと書かれています。一度行けば、帰ってこれないと言う、悲壮な覚悟で門出した武士の屋敷が在ったのは、この場所であります。
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