上杉朝宗及氏憲邸址
(うえすぎともむね・および・うじのり・ていあと)

 

昭和十年(1935)三月 鎌倉町青年団


碑文

朝宗は足利氏満 満兼に歴任し 入道して禅助と号す 人称して犬懸(いぬかけ)の管領(かんれい:将軍代理職)といふ 其子氏憲 嗣(つぎ:継)て持氏の執事となり 入道して禅秀と号す 然(しか)るに後 持氏と隙(不仲)あり  応永廿三年(1416) 氏憲は持氏の叔父満隆と謀り 満仲を奉じて兵を起せしも遂に敗れ 翌年(1417)正月 一味 と共に雪ノ下の鶴岡別当坊に自尽す 此処は即ち其の邸なり

説明

上杉朝宗は、足利氏満(うじみつ)、満兼(みつかね)に仕え、出家してからは禅助(ぜんすけ)と言いました。当時の人は、犬懸(いぬかけ)の管領(かんれい:将軍代理職)と言いました。その子の氏憲(うじのり)が跡を継いで持氏(もちうじ)の許で事務を取り仕切り、 出家してからは名前を禅秀(ぜんしゅう)と言いました。しかし、持氏と仲たがいになり、1416年に、氏憲は持氏の叔父(おじ)の満隆(みつたか)と共に計画して、満仲に勧めて戦いを起そうとしましたが失敗しました。 そして1417年1月に、一味と共に雪ノ下の鶴岡別当坊にて自殺しました。ここはその屋敷があった場所です。
位置
犬懸橋を渡り、150メートル南下すると十字路に出る。その西南部に建つ。


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