義経宿陣之址
(よしつね・しゅくじん・のあと)
昭和十六年(1941)三月建 鎌倉市青年団
碑文
文治元年(1185)五月 源義経朝敵を平らげ降将前内府平宗盛を捕虜として相具し凱旋(がいせん)せしに 頼朝の不審を蒙(こうむ)り鎌倉に入ることを許されず 腰越の駅に滞在し鬱憤(うっぷん)の余 因幡前司大江広元に付して一通の歎状(たんじょう:嘆願書)を呈せしこと東(吾妻)鑑に見ゆ 世に云ふ腰越状は即ちこれにして 其の下書と伝へらるるもの満福寺に存す
説明
1185年5月、源義経(みなもとのよしつね)は、平家(へいけ)と戦って、平宗盛(たいらのむねもり)を捕虜にし、鎌倉の入り口である腰越(こしごえ)まで帰ってきましたが、頼朝は義経の事を信用していないため鎌倉に入ることを許しませんでした。 そのため腰越に留まったままでした。この時、無念の気持ちを一通の嘆願書(たんがんしょ)にして、大江広元に渡したことが、吾妻鏡(あづまかがみ)に書いてあります。これが世に言う「腰越状」で、その下書きといわれるものがここの満福寺に残っています。 位置
腰越2-4-8にある満福寺の山門入ってすぐ右側に建つ