永安寺址
(ようあんじ・あと)

 

大正十五年(1926)三月建 鎌倉町青年団


碑文

永安寺は二階堂谷(にかいど うがやつ)に属す 関東官領 (かんれい)足利氏満(うじみつ)の開基にして 其の開山 は曇芳和尚なり 和尚名は周 応 夢想国師の法嗣(ほうし: 後継者)にして 建長寺瑞林 庵の始祖たり 氏満 応永五 年(1398)十一月四日を以て卒 (死)す 其法号を永安寺壁山 全公と称す 寺号此に基く  氏満の孫持氏(もちうじ) 時 の将軍義教(よしのり)と隙(げ き:不仲)あり 兵敗れ勢窮(きわまり)り 此寺に篭居して 自殺す 時に永亨十一年 (1439)二月十日なり 此日  寺観又兵火に罹(かか)りて廃 滅に帰す 此所は実に其址なり

説明

鎌倉公方(くぼう:将軍)の足利 氏満(あしかがうじみつ)が 1398年11月4日に死に、その 戒名(かいみょう:死人に付け る名前)を永安寺壁山(へきざ ん)全公といいました。その 子の足利兼満(かねみつ)が供 養(くよう)のため寺を建て、 寺の名はその戒名からとりま した。和尚の名は曇芳周応 で、夢想(むそう)国師の後継 者でもありました。1439年2 月10日に氏満の孫の持氏(も ちうじ)は、当時の将軍であ った足利義教(よしのり)と争 って敗れ、この寺で自殺して おります。その時に寺は焼か れてしまいました。この場所 はその寺の跡です。
位置
二階堂729付近で,瑞泉寺山門 を入ってすぐ右(南)側に天園 ハイキングコースに向かう小 道が在り,その道を100メート ル程南に進むと右側に西洋料 理店が在る.その先を右に曲 がって,20メートル進んだ右側の土手に建つ。個人の庭の中のため、その旨断わるこ と


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