旧友

11月の絵  秋の彼岸の一日、大学時代の友人の墓参りに、埼玉県の深谷へ出掛けた。旧制の大学予科の同じクラスで、何となく六人のグループが出来、六游会と名付けて、卒業後も付き合いが続いた。仲間のひとりMは、実は一年先輩である筈が留年させられて同クラスになった男で、何となくグループの親分格であったが、一番早く癌で亡くなった。戦争のせいで、卒業はまちまちであったが、既に卒業後五十年を越え、その間に更に二人が世を去った。学生当時からは思い及ばないような、つらい人生を歩んだ上であった。残った三人は、私を別にして、一人は高崎でコーヒー店を営み、ひとりは山形県の蔵王の近くで病妻をかかえ、リタイヤの生活をしている。「便りのないのはよい便り」と、殆ど文通もしていないが、気持ちは離れていなかった。
 今年の春、私は永年書き溜めたものをまとめたささやかな本を自費出版したので、二人に送った。高崎にいるOの娘さんから、突然手紙を貰った。誠に誠にご報告が遅くなり申訳ございませんが、父は二月七日に他界致しました。入院生活一年半余、誰にも知らせないでほしい、と父の希望でした・・・。言葉が出なかった。Oとの付き合いは、六游会の中で特に深かった。穏やかなやさしい男だった。二歳年上で、学徒出陣で予備士官となり、空軍で特攻出撃の直前で終戦になった。戦後、復学した学部で、試験の時になると私の家に泊まりこんで、ノートを写したりした。戦後のもののない頃、深谷のOの実家へ行って米や野菜を都合して貰ったりした。卒業後Oは、何年かは会社勤めをしたが、何を思ったか、コーヒー店を開いた。表に出さなかったが、戦争の傷を負っていたに違いない。毎年欠かさず深谷名物の葱を年末に送ってくれた。私は映画女優のカレンダーを送っていた。去年の暮、いつものように電話で、お互いに礼を言い合った。いつも通りの声に聞こえたが、入院中の病院からであったと、初めて知った。悲しみを越えた無情感に包まれた。
 何十年ぶりかも知れない深谷の駅周辺は、まるで別のまちのようだった。Oの甥にあたる方が、駅まで出迎えて下さった。深谷の旧家であるO家の墓所は、まことに立派なもので、Oの兄弟五人の墓石が、同じ形で一列に並んでいた。秋晴れの、それも汗ばむような陽差しの中で、合掌した。久しぶりにOと会った気がした。帰途、高崎のコーヒー店に寄った。晩婚だったOの若い未亡人が、カウンターの中で働いていた。無口でシャイなOが、どんな顔をして、あのカウンターの中にいたのだろうと思ったとき、突如深い悲しみが、私を襲った。

(S・Y)

鎌倉ケーブルテレビ広報誌
「チャンネルガイド」
平成13年11月号掲載
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