鎌倉文学館(二)

 誕生秘話

BBギャラリー鎌倉美学より転載:宮越洋二撮影「バラ爛漫(鎌倉文学館)」  鎌倉文学館の誕生までの前史に触れてみたい。
 昭和五十五年(一九八〇年)、神奈川県は県立の文学館建設の計画を発表、県内の有力都市に対し誘致の打診があった。
 その頃鎌倉には、地元の文学愛好家たちのグループ「鎌倉文学史話会」というものがあり、数年前に市長に対し、”鎌倉文学館を設置することについての陳情書”を提出していた。郷土史家であり、文学者でもある澤寿郎さん、作家、俳人で後に文学館の二代館長になった清水基吉さん等が中心的存在で、市内在住の学者、ジャーナリストを加えた、この文学史話会の存在が、鎌倉文学館にとっては、大きな推進力になったのである。史話会では、この県の計画の誘致に方向転換したが、建設場所の条件などに問題があり、ご承知の通り横浜市に決定してしまった。史話会は再び鎌倉市に提言、市も本腰入れて文学館建設のための専門部会を発足させた。折も折、前号にも書いた前田家別邸の建物の市への寄贈があり、時、所を得て、鎌倉文学館建設が実現へ向かう訳である。昭和五十九年、文学館協議会が設置され、秋には特別展示室、収蔵庫の増設を開始、史話会のみならず、鎌倉市民にとっても嬉しいニュースとなったのである。これには、当時の市長小島寅雄氏の並々ならぬ情熱があった。

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 昭和五十六年九月十日、鎌倉市長渡辺隆氏が急逝した。昭和五十三年に、革新市長正木千冬氏を破って市長に就任したのに、ガンに侵され僅か三年、六十二歳の若さで世を去った。同年十一月一日、小島寅雄市長が誕生する。長く教育畑を歩き、教育長からの市長就任で、文人市長と呼ばれた方である。文学館建設には、鎌倉文士の人たちの間にも、消極論があったとも聞くが、小島市長の人柄と文学への熱い心が、作家たちの理解を深めたであろうことは想像に難くない。良寛を愛し、野ぼとけを愛した小島さんは、地位や権威には淡々としていた。一期四年が過ぎ、任期満了に伴う市長選が行われたのが昭和六十年十月二十八日、小島市長は破れ、中西功市長が誕生した。初代文学館長永井龍男先生も、小島市長と一緒に文学館の開館を迎えたいと思っておられたに違いない。当時のことをくわしくは知らないが、恐らく永井先生の心づかいと、中西新市長や関係者たちの配慮であろう、

   十月三十一日 鎌倉文学館開館
   十一月一日  一般公開

となったのである。
 心温まる話である。鎌倉を誇らしく思える見事なお裁きではないか。現在の職員のひとりに聞いた話だが、鎌倉文学館記念パンフレットは、小島市長の挨拶の載った十月三十一日、一日だけのための、パンフレットがあるという。
 当然のことではあるが、今日の世智辛い世の中からみると、何と筋の通った、折り目正しいことか、頭の下がる思いである。
山内 静夫
(鎌倉文学館館長)

鎌倉ケーブルテレビ広報誌
「チャンネルガイド」
平成16年9月号掲載
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