祭りのあと
サッカーのワールドカップ(W杯)ドイツ大会が終わった。結果は、今さら申すまでもないが、二敗一引き分けで予選リーグ最下位であった。予想外なのか、まあこんなもの、だったのか素人の私にはよくわからないが、事前のマスコミ情報などからみると、思わぬ惨敗だったのだろう。結果は、いろいろ意見はあるのだろうが、致し方ない。勝負の世界、弱い方が敗けるのだ。そんなことより、こんな、と言ったら叱られるかもしれないが、スポーツの一大会が、国全体の盛り上りになったことに驚きを禁じ得なかった。いくつかの疑問点が私なりにあった。
このW杯大会というのは、日本は三回目の出場だそうだが、四年前、八年前と較べて、比較にならない程の関心の高さは何なのか。それは、多分結果に対する期待感だったのだと思う。去年の六月にアジア予選を見事に勝ち抜いて、今回のドイツ大会出場の決定から、まさに一年間、マスコミの力に煽られ、序序に序序に盛りあがってきたもので、今更ながらマスコミの力の大きさに驚く。そしてさらに、終わってからのマスコミの手の裏返す反省意見と、引き潮の如き速さの紙面からの撤退にも舌を捲く。もっとも始まる前はいいことづくめで、悪い予測はしないものなのだろうが、それにしてももう少し冷静な分析意見があれば、国民金体の考えも変わっていたかもしれない。大体日本は、団体スポーツに関しては、世界ランクはまだ低い。ラグビー、アメラク、ホッケー等々然りで、だからこそ今年の野球のWBC大会での王監督率いる日本代表チームの優勝は特筆に値するのだ。確かに、スポーツは波にのるということがあるので、第一戦のオーストラリア戦での逆転負けは出鼻を挫かれた痛い敗戦ではあったが、それ以降の二戦、そして世界各国の試合を見ていて、残念ながら日本の技量は劣っていたといわざるを得ない。細かい内容は別にして、シュートのスピードと力感の無さ、パスの不正確というサッカーのテクニックの基本のところで差があったことは、素入でもわかる。叱られるかもしれないが、幕下は、どうやっても横綱大関には勝てない。実際プレーする選手たちが、それは一番わかっている筈だ。何が起るかわからないのがスポーツ、というのも当然一理あろうが、己を知り、己の分を盡すところに、何かが起る可能性が秘められているのだろう。ブラジルに二点差以上で勝つことを、応援するサポーター、国民に期待させるのはいかがなものか。又莫大な放送権料を支払ったであろうNHKが、おカネに見合う放送時間を少いネタで埋め合せていた空虚な内容の番組をご覧になった人も多いと思う。要は、すべて思惑がはずれたのだ。 お恥しい話だが、サッカーに限って、何故サポーターと呼ばれる応援の組織があるのか、私はよく知らない。極く普通のサラリーマン、妻と幼児との三人暮し、といった二十代後半から三十歳台位の若者が、会社は有給休暇か何かしらないが、ドイツまで出掛け、日本にいる時には考えられないハイテンションになって、お白粉塗って頬っペタに日の丸書いて絶叫している姿は、申訳ないが私には奇異だ。残された奥さんや子供は平気なのだろうか。かなりの出費だと思うが、サッカーのサポーターだと何故許されてしまうのか、不思議でならない。普段は、朝から晩までパソコンに向きあって、たった一人の世界の中で仕事をしている若者が、突然熱狂的な集団の一員となって、ピッチを走る十一人の若者たちに同化してしまうという所にサッカーの醍醐味があるのだろうか。プロ野球の私設応援団などと同日の談ではないのだろうが、国内の試合では敵味方なのが、W杯のような国際大会となれば、そこは日本代表という錦の御旗で、サポーターも国民も一つの意思に結集することに、私は今の時代で大変すばらしいことだと思う。国会での教育基本法の改正論議の中で、愛国心の問題があれこれ議論されているが、このサッカーのサポーターたちの、日本代表チームへの熱い心こそ、二00六年現在のまぎれもない愛国心の現れでなくて何であろう。小さな子供たちの手を引いて競技場へ入場した選手たちが、整列して子供たちと一緒に「君が代」を唱い、国旗の掲揚を仰ぎみるシーンで、私はいつも必ずジーンとくる。選手たちは勿論、会場のスタンドを埋め盡しサポーターたち、そしてテレビを見ている国民のすべての人々、そのすべての人たちの心の中に、ニッポン、という意識がしみ通っていくのだ。スポーツのすばらしさ、純粋さはここにある。今現在の日本、残念ながらあまり愛したいと思わない。これは不幸だ。遠く離れたドイツの空の下のことだからなおのこと、その思いが強く心に響いてくる。 勝ち敗けはどちらでもいい、などと子どもじみたことは言わぬ。勝つための練習は、選手の皆さん、現在の十倍も二十倍もして頂きたい。これだけは選手自身ひとりひとりに努力して頂くよりほかに道はないのだから。勝ちたいと思う気持ちは、選手が一番強いに決まっている。その気持ちを常に強く持ち続けられる人が一流プレイヤーなのだ。まわりがあまりチヤホヤしないほうがいい。騒ぎすぎはよい結果を齎(もたら)さないことを、私たちひとりひとり肝に銘じておくべきだ。 山内 静夫
(鎌倉文学館館長・KCC顧問)
鎌倉ケーブルテレビ広報誌
「チャンネルガイド」 平成18年 8月号掲載 |
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