年の瀬に想う

 「谷戸の風」も、この12月で14年間書かせて頂いたことになる。大袈裟でなく、毎月この締切がくるのが生活のリズムの一つになっている。平成5年から12年までの8年間の分は、私の初めての著書として出版させて頂いた。平成12年は西暦の2000年で、一つの区切りでもあった。いつまで続けられるか、松本KCC社長のご好意に甘えている。
 23歳の年に、映画会社の松竹に入社して、大船撮影所の製作宣伝課というところに所属させられた。企画製作、映画のプロデューサーになりたかったが、そう簡単に希望通りにはならなかった。しかし、仕事の内容は撮影現場に密着していて、監督や俳優との接觸も多いので楽しい職場だった。苦手だったのは、映画のシナリオを読んで、すぐそのストーリー、梗概(こうがい)を書くことだった。馴れた先輩など、シナリオを半分ぐらい読んだら、どんどん書き出して、シナリオを読み終わると同じ位には、ペラ7、8枚の原稿を書きあげていた。1、2年の間に、どうやら書けるようになり、映画雑誌などに、スタアのインタビュー記事とか、撮影現場の話題、ゴシップなどを書いては、ささやかな原稿料を稼いで、飲み代にしていたものだった。書くということに、白信まではいかないが、面白いと感じるようにはなった。その後メモに毛の生(は)えた程度の日記を付け出してからも40年以上になり、それも思った以上に勉強になっている。中身は恥多きこともあるが、毎日必ず一度は文字を書く習慣は、吾ながらよく続いたものと思う。
 12月号となると、やはりその年の総決算みたいな気持になるが、そう思って日記をふり返ってみたりするが、世の中のことは残念ながら口にするのも腹が立つようなことばかりである。仲間うちの居酒屋の支払いぐらいなら、役所の堅苦しい経理を知っているから眼をつぶってやらないこともないが、どこぞの県庁で、上司も従業員組合も含めて何千万円の裏金をくすねていたなどというのは、呆れてものも言えぬ。それに対して、県知事などのトップの発言も、まさか許すとは言わないが、どこかに長い間の悪(あ)しき慣習で仕方のない面もあるというような口ぶりだったりする。国は、それは県のこと、わが身内でなければ関知せずみたいなよそよそしさ、これは名誉ある?代表例を挙げただけで、大小を問わなければ枚挙に遑(いとま)がない。
 師走ということばからは、慌しさを感じる。私の12月は、12日に恩師小津安二郎先生の命日の墓参(円覚寺に墓所がある)と、その後かつてのスタッフたちで集って会食をするのを、先生の亡くなられた昭和三十八年の翌年から毎年行っているから、既に40数年になる。スタッフたちも、どんどん少なくなっているが、代りに小津監督を敬愛する小津ネットワークの人たちも参加して頂いて、25、6人の集りを愉しく行っている。私には、この日が過ぎると、今年もいよいよ終わりを実感する。
 曽っては20日すぎ頃からは、巷が何となく賑やかになり、正月のお飾りを売る店が商店街の入り口に出て、くじ引で大当たりでも出ると鉦や太鼓で囃したりする。商店街も活気が出て、おそい時間まで皓皓と灯りをつけて商売する。売る方も買う方も、年の瀬というムードを楽しむように、財布の紐もゆるむのだ。いい運は来年も続くように、悪いことを来年に持ち越すまいと、気持が高まる、今風に言えばテンションがあがるのが12月という月なのだが、いまはそんな感じも薄れた。鎌倉というまちなどは、スーパーなど大型店舖を別にすれば、商店街に特別の空気が醸し出される気配は殆ど見られない。忘年会などで盛り上がった若者たちが高歌放吟する姿などどこにもない。大体年末に限らす、酒に酔っている若者が非常に少い。私など若い頃は、酒が好きだったこともあるが、毎夜の如くのんだくれていて、それでいて翌日の仕事に差支えなどしなかったものだ。酒呑みを奨励しているのではない。人は、喜怒哀楽を受け止め、それを心の中でかみしめることが成長の一つなのだと思う。それも周囲との関わりの中で、他人(ひと)の分も思いやって心を通わすことが大事なのだと思う。
 2000年の12月の「谷戸の風」に、次の世紀は、ズバリ携帯電話の世紀になる、と私は書いた。別に予見でもなんでもないが、今や全くと言ってよい程、その時代になった。すばらしい文明の進歩であるが、その裏で失われていくものの大きさも忘れてはならないのではないだろうか。

山内 静夫
(鎌倉文学館館長・KCC顧問)

鎌倉ケーブルテレビ広報誌
「チャンネルガイド」
平成18年12月号掲載
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