冷や水か、杖か
いい加減にトシを考えなさいよ、いつまでも若いつもりになって・・・、と娘。
トシは爭えないものよ、自分じゃわからないけど、もうムリはきかなくなってるんだから、とカミさん。 去年11月、肺炎で10日間入院してからというもの、風当りが強い。若い頃から、名のつく病気で入院したことは、皆無に近い。それが去年、何と2回も病院生活を送ることになった。1度は、高齢男性につきものの前立腺肥大の手術のためで、肺炎の場合とはケースが違うが、入院ということで言えば確かに1年に2回ということになる。たまには病院にでも入って、1日中寝てくらしてみたいよ、などとバチ当たりなことを嘯(うそぶ)いていたのだが、いざそうなったら、10日間は結構つらかった。退院してわが家で食べたお新香の茶漬は、しみじみ有難味を感じたものだった。 健康に無頓着という訳ではない。1年1度の市の健康診断とか、毎月1回の血液検査などは、マメにキチンとやっている。その結果で自信を得ているということもなくはない。30代から50代まで、映画会社にいて、自分で言うのもおかしいが、朝から夜までよく働いていたが、働いてと言っても夜の部は殆ど酒の付き合いで、よくまあ続くものと呆れたり軽蔑されたりしていたのに、今日まで肝臓でチェックされたことは1度もない。 古い人間で、体なんて動かせば動かす程いいので、なまじ労(いた)わったり、過保護にするから病気になるのさと、理窟にもならない理窟をこねて、今日まで来た。果してそうだろうか、と実は最近少し不安になったりもする。メタボリック症候群とか、大形(おおぎょう)な言い方でマスコミを賑わしているが、昔流に言えば単なる中年肥りだ。薬は副作用が心配だが、サプリメントなら問題ないと、掌いっぱいの錠剤を口に放りこむ。とに角あらゆる手段を駆使してわが健康を守るのが、現代を生き抜く知恵となっているようだ。 さて、自らを振り返ってみると、前に述べたような家人の攻勢の中で、次第に健康が元に戻ってくると、それで果していいのかという多少の反骨精神が首を抬(もた)げてくる。私たちの世代は、戦中戦後を20歳台の若さの中で過して、堪える、我慢する生活のために鍛えるということを学んできた。それがいま生きていることの土壌になっているように思う。そう考えると、どうもいまの白分のあり方が何となく守勢に廻っているように思えてきて、自分自身への不満を感じてしまう。又家人に叱られるかもしれないが、もっと頑張らないかん、という声が聞えてくる。週2回程のお勤めに、雨降りだったりすると、ついタクシーを呼んでしまったりする。たかだかワンメーター位の距離で、運動のため歩くのに丁度よいのに、である。いいんですよ、タクシーぐらい使ったって・・・、歳なんだから・・・、と又しても言われると、一応の反発はするものの、結局ズルズルと流されてしまう。こんな些細(ささい)なことで思い悩んだりするのもバカげた話なのだが、歳だから、ですべて許してしまうのもガマンがならない気がする。確かに年齢は否も応もなく進んでいくのだけれど、だから肉体を労(いたわ)るだけでいいとは思いたくない。これを世に、「年寄りの冷や水」と言うが、冷や水が健康に悪いとも限らぬではないか。大学時代のクラスメートのひとりは、毎朝全身をたわしでこするそうで、痛くないかと聞いたら、馴れれば大丈夫、と澄ましていた。私の父も90数歳まで生きたが、上半身乾布摩擦をかかさずやっていた。これすべて己れを鍛えるという意志から発することで、気力というものがいかに価値あるものかと思えてならないのだ。 年寄りの冷や水、と対極にあるのは、「転ばぬ先の杖」であろう。それはそれで大事な心掛けに違いない。実際に、お年寄りで転んだことが原因で、健康のバランスを崩してしまったという話はよく耳にする。無茶もせず、臆病にもならず、程々にするのが一番というのでは、結びとしていかにも迫力がない。 歳はとろうとも、これから何か始めようという気力が大切というのは間違いない。もうそう長くは生きられないよ、と自ら言うのは、人間として不遜だ、誰にも決められることではない。何も思い残すことのない人生というのが、果してほんとうの幸せなのだろうか。 山内 静夫
(鎌倉文学館館長・KCC顧問)
鎌倉ケーブルテレビ広報誌
「チャンネルガイド」 平成19年3月号掲載 |
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