会話のむつかしさ
会話、というと固苦しく聞こえるが、人と話をする、という極く当たり前の日常的
なことが、案外むつかしいものだと感じることがある。
それもどちらかと言うと聞くことのむつかしさだ。興味のない話題やわかりきった内容の話を聞かされた時、それもダラダラと長ったらしくされると、誰でも多かれ少なかれ表情に出るのは致し方ないにしても、逆に興味のもてる話題や自分も身に覚えのある話になると、共感するだけではすまなくなって、つい相手のひとの話の腰を折ってしまう人がいる。悪気はないのかも知れないが、相槌を打つだけでは気がすまぬと見えて、「と言うよりは・・・」とか「それよりも・・・」という間投詞を入れて自分の意見を述べるひとを見かけるが、何か相手のうわ手に出ようとするように見えていい感じがしない。
聞き上手ということばがあるが、相手のひとの気持ちや心をそらさないようにすることは、コミュニケーションの基本のように思う。近頃電車の中などで中高生の会話を耳にすると、お互い相手にお構いなしに勝手にしゃべっていて、会話と会話が空中衝突しているようで、あれで相手の話を聞いているのだろうかと不思議に思う。
話すことのむつかしさは、座談会とか講演のナマの速記録を見たときに一番感じる。何と同じことばの繰り返しや同じ中身の話が重複していることかと、恥ずかしくなってしまう。話を強調するための重複ならよいのだが、話の内容の進展がないのに、ただ堂々めぐりをしているだけで、われながら情けない。その反対に、ビジネスの会話などでは、考えていたことの半分も話せなかったりするのだが・・・。
話す、ということも勉強が必要だと思う。(S.Y)
鎌倉ケーブルテレビ広報誌
「チャンネル鎌倉」
平成8年3月号掲載
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