冬の陽差しの中で

11月の絵  その日は、二月下旬というのに暖かな一日だった。母はやわらかな冬の日差しに誘われるかのように家を出て、街を歩いた。小町通り辺りでバッタリ父と出会った。 もの書きの父は、昔から仕事場を別に持っていた。母は、五人の子供の養育にかかり切りの人生だった。終戦を挟んだ数年を除けば、それがわが家のありようだった。仕事場が東京から鎌倉になっても、子供たちがそれぞれ所帯をもって去っていってひとりになっても、母はその生き方を変えていなかった。
 父と母は、思い立ったかのように、駅の西口から数分の拙宅へ立ち寄った。妻は、この滅多にない突然の来訪に途惑いつつも、両親の好きな麻雀の仕度をした。夕方、妻は私の勤め先へ電話をかけ、夕方までに帰るようにと、言った。つるやのうな重で食事をし、又麻雀となった。母には、この久しぶりの家族の団欒は楽しいものであった。九時半近くであったか、母は一足先に帰ると言った。私も妻も、まだ麻雀中だったので、高校生だった私の娘にタクシーのある駅の西口まで送らせた。四、五分で戻って来た娘は、おばあちゃん、今夜は暖かいから歩いて帰ると東口の方へ行った、と言った。それから三十分程で、父も仕事場へ帰った。
 その直後である。東京にいる私の姪から電話がかかった。おばあちゃんが交通事故で病院へ運ばれたって・・・。わが耳を疑う間もなく病院へ走った。診察室の固い寝台の上で、既に母はこの世の人ではなかった。点滅信号の横断歩道で、母は車にはねられた。北海道から出て来て、市内の小さな町工場で働く二十才の若者が、無免許で工場の車に乗っての事故だった。 かすり傷ひとつない、静かな顔だった。私はさっきまでの嬉しそうな顔を思い浮かべた。悲しみよりも、無情感が私を包んだ。今日がこんな暖かな、やさしい日でなかったら、と私の混乱した頭は、そんな理不尽な憤りに捉えられていた。
 今年の二月二十四日、母の二十七回忌を迎える。そして私も、母が亡くなった時と同じ歳になった。

鎌倉ケーブルテレビ広報誌
「チャンネル鎌倉」
平成9年11月号掲載
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