| 境内案内 | 歴史 | [ 寺号 ] 粟 船 山 常 楽 寺 (臨済宗) | |||
[ 所在地 ] 常楽寺へは、JR 大船駅東口から、常楽寺を経由するバス(鎌倉駅方面または鎌倉湖畔行き)に乗ります。「常楽寺」バス停がありますが、1つ手前の「大船住宅前」が少し近いようです。ここで降りて進行方向に進むと、まもなく左手に参道があり、その奥に山門が見えます。 鎌倉の中心方面からは、県道横浜・鎌倉線の常楽寺交差点を左折し、しばらく進むと、右手に参道が見えてきます。 [ 常楽寺の古建築 ] 山門・仏殿・文殊堂を地図から見る場合は、下の図の該当する「白抜き文字」をクリックしてください。新たなページとして開きます。 | |||
[ 境内案内 ] 参道の入り口に「木曽義高 北条泰時公墓」の銘のある石塔があります(左下)。 参道を進むと山門があり、「粟船山」の額が掲げられています。 山門の右手より入ると、右手に庫裏と本堂兼客殿があり、正面に仏殿が見えてきます。 仏殿の手前には北条泰時が自ら手植えをしたといわれる、大銀杏の老木があり、その左手には、頂上に猿が寝そべった姿を載せる庚申塔が立っています。道しるべにもなっていたようで、正面に「粟船もんじゅぼさつ道」とあり、享保三年(1718)と彫られています。 仏殿の右には、庭園があり、色天無熱池と呼ばれる池があります。色天は、色界ともいわれ、欲界と無色界の間にあるとされるところで、禅を修めたものが生まれ変わるとされる世界とのことです。無熱池とは、阿耨達池 (あのくだっち) ともいわれ、ヒマラヤの北にあるとされる想像上の池で、中に竜王が住むといいます。 仏殿の左手には文殊堂があります。 仏殿の裏手には、大きな墓石が3基ありますが、右手が開基の北条泰時のものです。(写真右) 中央は、中興の開基と仰がれる龍淵和尚のもの(写真左)で、左手は、建長寺十三世 大応国師のものです。(写真右) 裏手の山の上には、源 (木曽) 義高のものといわれる墓石があります。(写真左) その途中には北条泰時の娘で、三浦泰平の妻の宮姫のものといわれる石の祠もあります。(写真右) 義高は、源 (木曽) 義仲の長男で、義仲が平家に対して挙兵した際に、頼朝に対し二心のないことの証に、鎌倉に送られてきました。頼朝の娘の大姫が許嫁となり、仲良く暮らしていたといわれます。 やがて、義仲と頼朝の関係が悪化し、義仲が討たれると、義高の立場も危うくなりました。義高は、北条政子の計らいで鎌倉を逃れ木曽に向いましたが、入間川の河原で見つかり、討たれてしまいました。大姫の嘆きはたいそうのものだったといわれています。 当寺には、重要文化財で、「宝治二年」(1248)と「寺号常楽」の銘がある梵鐘があります。時頼が祖父泰時の追善供養のために造ったと伝えられています。鎌倉で、寺号の入ったものでは一番古いもので、鎌倉国宝館に常時展示されています。小柄で細身ですが、建長寺と円覚寺の梵鐘に次ぐものとの評価を得ています。 一見そのままにも見える小さな草木までに気を配るご住職の手になる、行き届いた境内をしばらく静かに楽しむことができます。 | |||
[ 歴史 ] 開山は退耕行勇(1163-1241)、開基は北条泰時(1183-1242) 『粟船山 常楽禅寺誌』などによると、嘉禎三年 (1237) に、北条泰時が妻 (三浦泰村の娘か) の母 (室家母尼とある) の追善供養のために、墳墓の傍らにお堂を建てたということです。このときの開堂の供養は退耕行勇が務めました。(行勇は浄妙寺の開山や、栄西を継いで寿福寺の第二世となった高僧です。) 粟船御堂といわれ、これが当寺の始まりといわれています。 北条泰時は、第三代執権で、後鳥羽上皇による承久の変(1221)の際には、幕府軍の大将として出陣して勝利し、貞永元年(1232)には『関東御成敗式目』を制定し、武家の規範となる法を作るなど、鎌倉幕府を確固たるものにしたとされています。 仁治三年(1242)、泰時が亡くなるとやはり、ここに葬られました。泰時の法名が常楽院殿観阿であることから、お寺の名前を常楽寺としたと言われています。 当初は真言供養が行われた記録があることから、密教の要素が強かったようです。後(1253年)に建長寺の開山になる蘭渓道隆は、1246年には日本にきておりました。五代執権北条時頼は、宝治二年(1248) 寿福寺にいた道隆をここに招き禅の道場を開きました。これにより、純宋風の禅が広められることになったといわれています。 「常楽寺にー百の來僧あり」(建長元年正月)といわれるほど、道隆に参禅求道する多数の僧が訪れ、そのための僧堂が建てられるまでになりました。時頼もしばしば師のもとに参禅したことが伝えられています。 建長寺が建てられると、住持は常楽寺の住職も兼ねることになり、「常楽は建長の根本なり」として、篤く取り扱われました。室町時代以降のことはあまり資料がないようです。 古建築のトップにもどる |