| 境内案内 | 歴史 | [ 寺号 ] 扇 谷 山 海 蔵 寺 (臨済宗)[ 所在地 ]海蔵寺は、JR鎌倉駅西口より市役所方面に向かい、最初の交差点(信号あり)を右折し、横須賀線を右手にして北に向かいます。10分足らずで、左手に寿福寺、英勝寺があり、そのまま線路に沿って進みます。 横須賀線のガードが右手に見えるところから、左折するようにして、さらに300メートルほど進んだ突き当りが海蔵寺です。 [ 海蔵寺の古建築 ] 山門、本堂、庫裏を地図から見る場合は、下の図の該当する「白抜き文字」をクリックしてください。新たなページとして開きます。 |
[ 境内案内 ] 境内入口の右手に底脱(そこぬけ)ノ井があります。鎌倉十井の一つです。名前の由来の一つに、次のような話があります。 室町時代、上杉氏の一人の女性が尼として修行していたときのこと、この井で桶に水を汲んだところ、底が抜けてしまったそうです。ところが、このことで心のわだかまりか解け、悟ることができたとのことです。 傍らに立つ石碑には「賎の女が いただく桶の底脱けて ひた身にかかる 有明の月」とあります。 山門を入ると、右手に鐘楼と庫裏、正面に龍護殿とよばれる本堂があり、開山の心昭空外坐像が祀られています。 左手には、薬師堂と呼ばれる仏殿があり、扉が開かれています。 薬師堂の中央には、本尊の薬師如来坐像と両脇に、向かって右手に日光菩薩、左手に月光菩薩像が祀られています。本尊は、啼薬師とも呼ばれていますが、胸のところに扉がついており、その中には、境内で見つかった仏様の頭部が納められています。 それには次のような話が伝えられています。 心昭空外和尚の時のこと、毎夜、赤子の鳴き声が聞こえてくるのを不思議に思い、その場所を掘ったところ、薬師如来の頭部が出てきました。そこで、これを納めるための、現在の本尊である薬師如来を新に造り、体内に納めたということです。 さらに、左右に、六体ずつ十二神将が配置されています。 左手には、1.8メートルほどの大きな位牌があり、それぞれ、応永三十年(1423)、永正十二年(1515)の古いもので、鎌倉ではここだけとのことです。 右手には、伽藍神や達磨大師、弘法大師像などが祀られています。 本堂の左手の崖には「やぐら」が4つあり、3番目は雨宝殿(うほうでん)と呼ばれるもので、ここには宇賀神の像が祀られています。翁の体に蛇が巻きついた姿をしています。 本堂の裏手には庭園がありますが、公開されていません。 仏殿の左、一段下の小道から、50メートルほど山際の道を進むと、弘法大師により掘られたとの言い伝えがある十六ノ井が洞穴の中にあります。円形に掘られた浅い窪みが縦横四つずつ、合計十六、規則正しく並んでいます。 本来は、井戸ではなく、納骨のためのものとの説もあります。 奥の正面には観音菩薩立像が祀られています。その左手の窪みには、阿弥陀三尊来迎図が彫られた嘉元四年(1306)の銘のある板碑がありましたが、現在は鎌倉国宝館にあります。大変貴重なものです。 海蔵寺から鎌倉駅に向かい、横須賀線のガードをくぐり少し進んだ先、北鎌倉方面とつながる亀ケ谷切通との分れ道に比較的新しい八角形のお堂が立っています。 源頼朝の娘大姫の守り本尊といわれる岩船地蔵が祀られていますが、こちらも海蔵寺が管理しています。 |
[ 歴史 ] 鎌倉時代にはお寺があり、幕府が倒れたときに消失したという説もありますが、 応永元年 (1394) 、第二代鎌倉公方足利氏満 (1359-98) の命で、扇ケ谷上杉の二代目上杉氏定 (1374-1416) が空外和尚を開山としてつくられたというのが有力なようです。 上杉氏定は、その後、第三代鎌倉公方足利持氏 (1398-1439) を補佐しました。持氏が山ノ内上杉の憲基を支持すると、山ノ内と勢力争いをしていた犬懸上杉氏の氏憲 (禅秀) は鎌倉公方持氏に不満を持ち、ついに乱を起しました。(上杉禅秀の乱, 1416-17) 持氏方は一時敗れ、西に逃げますが、持氏に加担していた氏定は藤沢で自刃します。 その後海蔵寺は、扇ケ谷上杉氏の保護の下で栄えたということです。 さて、開山の空外和尚については、諸説ありますが不明のようです。 同じような名を持つ高僧には、源翁心昭 (1329-1400) がおり、玄翁玄妙、空外などの名前でもよも呼ばれ、一方心昭空外 (?-1279) という高僧もおり、源翁禅師とも言われていたようです。 いずれも那須野の殺生石(後述)の伝説と結びついています。これらの僧のいずれかが海蔵寺の開山とする説もありますが、『鎌倉市史』では、開山の空外和尚とこれらの僧との関係は不明としています。 那須野の殺生石の伝説: 鳥羽天皇 (1103-56) のときに、宮中に怪しいことが頻りに起こりました。ある日宮中で管弦の宴が催され、夜も大分更けてきたとき、御殿が大揺れし、灯が消えてしまうとことがありました。すると天皇の前に侍していた玉藻前 (たまものまえ) という女性の身から光が発し、あたりを照らすほどでした。 その後天皇は病気となり、これらは全て玉藻前の仕業と分かりました。ことが明らかになると、狐の化身であった玉藻前は、元の姿になって東国に逃げ去ります。そして天皇の命を受けた三浦義明らが、那須野において討ち取ります。 しかし狐の霊が石となり、触れたものは人でも獣でも皆死んでしまうので、人々は殺生石として恐れました。100年以上の後、後深草天皇 (1243-1304) は源翁に禍を鎮めるよう命じました。源翁は那須野に出向き、もっていた杖を振り下ろすと、石は忽ち砕け散り、その後は禍はなくなったとのことです。 このページのトップにもどる 古建築のトップにもどる |