| 境内案内 | 歴史 | [ 寺号 ] 鷲峰山 覚園寺 (真言宗) |
[ 所在地 ] 覚園寺は、JR鎌倉駅東口よりバスで鎌倉宮行きの終点、大塔宮前で降ります。鎌倉宮の左手から、細い川に沿って10分ほど緩やかな坂を上ります。突き当りが覚園寺です。 [ 覚園寺の古建築 ] 山門、本堂、庫裏を地図から見る場合は、下の図の該当する「白抜き文字」をクリックしてください。新たなページとして開きます。 |
[ 境内案内 ] 石段の上の山門をくぐると一段と高いところが境内です。蓮が植えられた甕が並べてあり、左手には石の層塔が立っています。奥の境内は、お寺のかたが、1時間おきに、およそ50分ほどのご案内をします。 ご案内は、正面の愛染堂から始まります。中央にご本尊の愛染明王像、向かって右手に、不動明王像(試みの不動)、左手奥には、阿あしゅく如来像が祀られています。 愛染明王は忿怒の顔をしていますが、”愛”が本性で、愛欲煩悩の心を清らかな心に変えてくれます。全身が赤で塗られています。慶派の流れをくむ仏師が鎌倉後期に造ったものと推定されています。 不動明王坐像は、願行上人が大山寺の不動明王を造る前に試しに造ったものと伝えられており、「試みの不動」とも呼ばれています。願行上人は、今は廃寺になっていますがいくつかのお寺を開いた徳の高いかたです。 阿しゅく如来は、左手に薬壷をもつところから、薬師如来とされてきましたが、頭部から、「阿しゅく仏」の墨書銘がでてきました。同時に元亨二年 (1322) に造られたことも分かりました。薬師如来と同一と考えられることもあることから、薬壷との関連が推察されています。 このあと、境内の奥にある薬師堂へと進みます。堂の左手前には、鎌倉最大のマキ(イヌマキ)の木が立っています。650年以上は経っているものと思われます。 同じ本山(泉涌寺)のもとにある浄光明寺の仏殿の前にもマキがあり、偶然ではないと考えられています。 薬師堂は、建保六年 (1218) に北条義時が建てた大倉薬師堂がその始まりですが、火災に会い、文和三年 (1354)に建てられた仏殿を 元禄二年(1689)に改築したとされています。 ご本尊は薬師如来で、高さ 1.8 メートルの立派なものです。向かって右が日光菩薩、左は月光菩薩。薬師如来の前には、開山の智海心慧上人像が祀ってあります。向かって左手にはおびんずる様がおり、直してもらいたい体の部分と一致するところをなでてお参りします。 左右に、十二神将像があり、向かって右に干支の 子、丑、寅、于、辰、巳 が、左に手前より 午、未、申、酉、戌、亥 が配されています。 さらに、右奥には鞘阿弥陀とも呼ばれる、阿弥陀如来坐像が祀られています、像内にお像が納められていたという伝からこの名前が付いてとのことです。衣に土紋があることでも知られています。 土紋は分析によると、石英と長石の混合物、いわゆる粘土で、乾燥によるひび割れを防ぐため、細い砂のようなものを混ぜ、ニカワ状の粘着剤で練って型取りし、漆のようなものでつけたものと見られています。土紋はいずれも宋風の像に用いられているとのことです。他の例では、浄光明寺に祀られている阿弥陀像です。 左手の奥には、三体の伽藍神が祀られ、建物を守っています。 ご案内の次は、鎌倉市の西北にある手広というところの名主であった内海家の住宅です。昭和56年に移され保存されています。 宝永三年 (1706) に鎌倉の大工によって建てられたことが分かっています。茅葺を守るためには約70年サイクルの葺きなおしと、日ごろの手入れも必要なことなど、説明してくれます。さらにここで、次に巡るやぐらの十三仏に関連してのお話しがあります。 次いで、やぐらに案内され、十三仏をお参りします。奥の壁に十三の仏様が彫られています。 ご案内の最後は、黒地蔵で知られる地蔵菩薩立像です。黒地蔵のいわれは、みずから火加減をして地獄の罪人の苦しみを和らげるために、火を焚く役目を引き受けていただいているそうです。そのため、すすのため黒くなってしまいますが、何回塗りなおしてもとに戻ってしまうといわれています。お像は特に唇のかたちが力強く表現されている点に特徴があることです。 山際には、千躰地蔵と呼ばれる20〜30 センチメートルほどのお地蔵様を祀ったお堂があります。8月10日には黒地蔵盆が執り行われ、亡くなった方を供養する儀式があり、3年間お参りする慣わしになっていて、多くのかたが訪れます。 黒地蔵の分身として、1体を借りて家で供養するかたもいます。願いが叶うと新に1体を作って供えます。作らないかたは、新たに塗って戻せばよいそうです。中には普通のかたが作ったものもあるそうです。 [ 歴史 ] お寺の始まりは、建保六年(1218) に、北条義時が大倉薬師堂を建てたことでした。ついで、永仁四年(1296) 北条貞時が智海心慧上人を開山として改めて覚園寺として建立しました。 建武の中興では、後醍醐天皇が勅願寺とし、足利尊氏の勅願所として大いに栄えました。 足利尊氏については古文書もありますが、薬師堂の梁に「今上皇帝 (中略) 敬白 征夷大将軍正二位源朝臣 尊氏 謹書」と書かれたものがあります。 後北条氏や徳川家康などの保護もあり、元禄二年(1689) には仏殿が改築され、これが現在の薬師堂であるとのことです。さらに江戸期、明治に火災、関東大震災などでの被害がありましたが、戦後今の姿に復興し、現在では昔の様子をよく残すお寺とされています。 古建築のトップにもどる |