| 境内案内 | 歴史 | [ 寺号 ] 行 時 山 光 則 寺 (日蓮宗) |
[ 所在地 ] 光則寺へは、江ノ電の長谷駅から北へ(高徳院:大佛方面)、5分ほど進み、最初の交差点を左に曲がると長谷寺への参道ですが、その先をすぐ左に入り、道なりに坂を登ると、突き当りに光則寺の山門が見えてきます。 [ 光則寺の古建築 ] 山門、本堂を地図から見る場合は、下の図の該当する「白抜き文字」をクリックしてください。新たなページとして開きます。 |
[ 境内案内 ] 入口には朱塗りの山門があり、箱に100円を入れ、季節の花を紹介した手作りのマップをいただいて境内に入ります。 日蓮聖人の真筆に基づく「立正安国論御勧由来」を彫った石碑が立っています。その左には、解説した石碑があります。 左手には、宮沢賢治の『雨ニモマケズ、風ニモマケズ・・・』の碑があります。お寺とは直接の関係はないそうですが、賢治が日蓮宗に深く帰依し、活動したことを称えた信者の方の浄財をもって碑を建立したとのことです。 その先に本堂があり、慶安三年(1650)の建立です。入口には「師孝第一」の額がかかっています。 本堂の右手前の海棠は、およそ150年の大木で、開花の時期には大勢の方が訪れます。 本堂の左手には池があり、周りの季節の花や木々を楽しむことができます。 庫裏の右手から、山の中に向かう石段があります。途中には、日蓮に帰依した宿谷光則の墓があり、その奥の開けたところに、洞窟があり、石碑も立っています。 この洞窟は、日朗上人の土牢といわれています。日蓮聖人が伊豆に流されるときに従っていくことを願いましたが許されず、また, 龍口の法難の際にここに入れられたということです。 石碑には、苦難にありながら、日蓮聖人が日朗を励ました『土籠御書』について書かれています。 "明日佐渡の国にいくけれども、今夜の寒さにつけても、牢の中の有様は思いやられ、いたわしい。" と弟子を思いやる内容です。 |
[ 歴史 ] 日蓮聖人に深く帰依し、日蓮宗を信奉した宿谷光則が、日朗上人を開基とし、自らの屋敷をお寺としました。 寺号は行時山光則寺ですが、山号は光則の父の名、宿谷行時から、寺号は光則 (みつのり) から取ったということです。 話はすこし遡ります。建長五年 (1253) 日蓮聖人は鎌倉に来て布教をし、当時の社会の不安や天災の原因を幕府や他の宗派のせいとし、激しく非難しました。文応元年(1260)には、『立正安国論』を執権北条時頼に提出します。この提出は、時頼の近くに仕えていた "宿谷入道にたくして" 行われたといわれています。 光則は時頼の死の際に立ち会った1人とのことで、時頼との関係の深さが伺えます。 日蓮聖人はその後も活動を続けたため、文永八年(1271)に捕らえられ、片瀬の龍の口で処刑されることになります。日蓮聖人の高弟である日朗上人など、弟子、檀那を含め300人ほどが法難に会いました。日朗など6人は光則にあずけられ、牢に幽閉されます。日朗は師と罰を望んだといわれています。 『日蓮聖人註画賛』などによるこのときの "土ノ牢" は、この「日朗の土牢」であったといわれています。 龍ノ口の難を逃れた日蓮聖人は、同年佐渡への配流となりました。 文永十一年(1274)、日蓮聖人は赦されて鎌倉に戻りますが、やがて身延山に隠棲しました。 一方、日朗上人は鎌倉で妙本寺を拠点に活動しました。 このような中で、光則は日蓮宗に帰依することになり、屋敷を寺としました。 江戸時代の初期頃には、大梅寺とか大梅院と呼ばれた時期があったようです。 現在は海棠の花や、手入れされた庭に咲く季節の花を鑑賞するために多くのかたが訪ねるお寺となっています。 古建築のトップにもどる |