| 境内案内 | 歴史 | [ 寺号 ] 大異山 高徳院 清浄泉寺 (浄土宗) |
[ 所在地 ] 高徳院(鎌倉大仏)へは、JR 鎌倉駅東口から大仏・藤沢方面行きのバスに乗ります。10〜15分、バス停大仏前で降りると目の前です。一方、JR鎌倉の西口から歩く場合は、鎌倉市役所前を通って30分ほどです。 [ 高徳院の古建築 ] 山門・観月堂を地図から見る場合は、下の図の該当する「白抜き文字」をクリックしてください。新たなページとして開きます。 |
[ 境内案内 ]
境内に入り、仁王門を過ぎて左手の受付で拝観料を払います。 目の前に大仏が見えてきます。高さは台座まで含めて13.4メートル、像そのものは 11.3メートル、頭の頂上からあごまで 4メートル、目は 1メートル、耳は 1.9メートル、体重は 121トンなど、詳しいことは右手の売店の脇に掲げられています。 頭には 656個あるといわれる渦巻きの螺髪 (らほつ) があり、前面の中心には肉髻珠 (にくけいしゅ、にくけいじゅ) と呼ばれる円盤状のものが載っています。額には白豪があります。白豪は長く右巻きに巻いて額についていて、時に長く伸びて光を放ち、過去・未来・遠方のものを映し出すといわれます。 両手の配置は、前であわせ親指と人差し指をそれぞれ接するようにしており、上品・上生(じょうぼん・じょうしょう)という最高の位を示す姿をしています。 夕日に当たると、右の こめかみ から ほほ の辺りに金箔の跡を見ることができます。また、像の内部にはいると、段階的に積み上げて鋳造したことがわかる跡が見られます。 境内奥には、李王朝のもので、東京を一旦経て当地に移築された観月堂があります。聖観音立像(像高68センチ)と祐天上人坐像が安置されています。観月堂を韓国に返還する計画がありますが時期は未定とのことです。 与謝野晶子の歌碑はよく知られていますが、この夏の作を含めて春・夏・秋・冬を詠った歌碑があります。 (写真下左) 春の雨 かまくらの名も 和らぎて 飯室謙斉 (医師 1883-1928 高浜虚子より俳句を学ぶ) (写真下右) かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におはす 夏木立かな 与謝野晶子 (歌人 1878-1942) (写真下左) 寺々の かねのさやけく鳴りひびき かまくら山に 秋かぜのみつ 金子薫園 (歌人 1876-1951 落合直文の門下生) (写真下右) 大佛の 冬日は山に 移りけり 星野立子 (俳人 1903-1984 高浜虚子の次女) |
[ 歴史 ] 大仏の歴史は、広く知られているところですが、一方分からないことも多くあります。 そもそもは、源頼朝が東国にも大仏を建てる計画を持っていましたが果たせず、仕えていた稲多野局というものが実現のために働き、北条政子もこれを助け、僧浄光が全国を行脚して資金を集めたといわれています。鎌倉幕府・北条氏が当然のことながら支えたと考えられています。 歴仁元年(1238)に始まり、寛元元年(1243)に木像の仏像と、大仏殿が完成されたとあり、さらに、建長四年(1253)には金銅の大仏の鋳造が開始されましたが、それがいつ完成したかは不明です。 作者である鋳物師は、物部重光、丹治久友や大野五郎右衛門などの名が上がっています。大仏殿は、明応七年(1498)の大地震による津波で流されたといわれていますが、異なる見方もあります。その後は再建されることもなく、露座となったようです。 江戸時代に入ると、増上寺の祐天上人が、豪商野島新左衛門の資金を得て、修理しました。大仏の前の銅製の香炉は野島新左衛門の寄進とのことです。像のうしろには四枚の蓮の連弁が置かれていますが、このときに寄進されたものですが、果たせずそのまま置かれたものです。 当時は、訪れるものも少なく、荒れ果てていて、鳥が巣を作るような有様だったとも記されています。 大正14年には、12年の関東大震災により崩れた台座が修理され、昭和35年〜36年にかけての大修理では、頭部を支える首の周りを強化プラスチックで補強し、また、台座と像を離す免震構造も施されました。 鶴岡八幡宮とならび国内外の拝観者・観光客が多数訪れますが、その数は公表していないとのことです。 『大佛殿大異山清淨泉寺高徳院全圖』 明治26年発行 大仏と入口(仁王門)付近の拡大図 古建築のトップにもどる |