| 境内案内 | 歴史 | [ 寺号 ] 内裏山 九品寺 (浄土宗) |
[ 所在地 ] 九品寺は、JR鎌倉駅東口よりバスで光明寺、逗子方面に乗り、九品寺バス停で降りると目の前です。 [ 九品寺の古建築 ] 山門を地図から見る場合は、下の図の該当する「白抜き文字」をクリックしてください。新たなページとして開きます。 |
[ 境内案内 ] 山門をくぐると目の前に本堂があります。軒下には龍の彫り物がかかっています。 (本堂は非公開ですが、鎌倉シニア通信 2003年取材の際に許可をいただいたものです。) 本堂には、阿弥陀如来立像、善導大師、法然上人像などが祀られています。 寺宝のひとつに、義貞の直筆の「内裏山」、「九品寺」の額があります。 山門に掲げられている複製の額(左)と、お寺保管のもの(右) 本堂に掲げられている複製の額(左)と、お寺保管のもの(右) 本堂の前はそれほど広くありませんが、手入れがされて、一重の白い花をつけるナニワイバラは5月が見ごろを迎えます。 (写真右下は10月撮影のものです。) 本堂の左手の庫裏の前を過ぎて、奥の右手に進むと、一段高くなったところがあります。 薬師堂があり、薬師観音立像が祀られています。 ここはこの辺一帯では一番高いところで、市内を見渡すことができます。現在はビルなどで見通しが悪くなっていますが、ここに新田義貞が陣を置いたといわれると納得できます。 境内の北の端にある建物は、月影庵と呼ばれ、大正初期のもので、法事、その他の催し物のときに使われています。 [ 歴史 ] お寺の始まりは、新田義貞 (開基) が、北条高時など一族の冥福のために建立したと伝えられています。 延元元年 (1336) に風航順西和尚を京都から招き、義貞が鎌倉を攻めたときに本陣をおいた場所のゆかりから、この地が選らばれました。 元弘元年 (1331) 京都ではいよいよ倒幕の計画が、後醍醐天皇を中心にいく度かの失敗を重ねながらも進められてきました。 足利尊氏も幕府にそむいて六波羅探題を攻め、呼応するように新田義貞が上野で旗揚げをしました。 元弘三年 (1333) 義貞は5月8日いよいよ国を出発、徐々に軍勢が整ってきました。 激しい戦闘のうちに、5月22日 稲村ケ崎で "剣を投じて奇跡"を起します。そして一気に中心に向かって侵攻します。 町の中はあちらこちらに火が放たれ、猛火が罪のない人々を襲い、阿鼻地獄のようになりました。 北条方も勇猛に戦いましたが利あらず、同日東勝寺にて、北条高時はじめ多くの一族郎党、八百七十余人が自刃したと 伝えられています。『太平記』 古建築のトップにもどる |