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|  境内案内  | 歴史 |
写真1 写真2

[ 寺号 ]     新居山   円応寺 (浄土宗)

[ 所在地 ]
     円応寺は、JR北鎌倉駅より南東に15分ほど、すなわち市内の中心 (鶴岡八幡宮や鎌倉駅)に向かい進み、建長寺を過ぎると、まもなく右手に石垣があり、階段を登った一段高いところにあります。

[ 円応寺の古建築 ]
     本堂鐘楼を地図から見る場合は、下の図の該当する「白抜き文字」をクリックしてください。新たなページとして開きます。
|  本堂 |  鐘楼 |
hondo shoro
 
[ 境内案内 ]

     境内の入口の石垣には、閻魔大王の看板があり、山門にいたる石段の両脇には「南無延命地蔵菩薩」という赤い旗が並び、閻魔大王などの十王や救っていただけるお地蔵様に会えるところだということが分かります。
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     門の手前右に庚申塔があり、脇に彫られた「元禄四辛未年九月吉日 新居円応寺」は、お寺が材木座にあったときのもので、お寺と一緒に移転されたものと考えられています。([歴史]をご参照)
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     左手の受付で拝観料を払います。正面に本堂があり、手前にお線香を上げる香炉があります。また手前右には、鐘楼があります。
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     本堂には、ご本尊の閻魔大王が中心に座り、左右に地獄の"裁判官"である十王や脱衣婆などが祀られています。それぞれの役割について、丁寧な説明がついていますので、"死後の世界"の様子を知ることができます。
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     閻魔大王坐像については、寺伝では運慶作となっていて、次のような話が伝わっています。

     運慶が晩年のことです。頓死をして閻魔大王の前に引き出されました。大王がいうことには、"もし汝がわが姿を彫像し、その像を見た人が悪行をせず、善行をするようになるのであれば、娑婆に戻してやろう。"といったとのことです。

     生き返った運慶が、その姿を彫ったものがこの像であるといわれています。色がかなりはげていますが、朱塗りであったことが良く分かります。

 
[ 歴史 ]
     お寺の始まりは、建長二年(1250)、智覚禅師により建てられ、大仏の東の山 (見越嶽) にあったとされています。荒井(新井)閻魔堂とも言われていました。

     その後足利尊氏が由比ガ浜に移しました。そして、太宰春台とともに旅をした安藤東野 (とうや) が享保二年 (1717) 『遊湘紀事』 に書いた路程では、建長寺、新居閻魔堂、浄智寺とまわっており、このときには現在の場所となってることが分かります。そこで、元禄十六年(1703)の大地震により壊れたため、現在の地に移されたと推察されています。

     現在の地は、建長寺の塔頭の大統庵もしくは大智庵の跡といわれています。

    
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