| 境内案内 | 歴史 | [ 寺号 ] 岩蔵山 光触寺 (時宗) |
[ 所在地 ] JR鎌倉駅東口より十二所・金沢八景方面のバスに乗り、十二所バス停で降ります。信号を右に渡り、県道から右に入るやや狭い道を進むと間もなく光触寺の山門が正面に見えてきます。 [ 光触寺の古建築 ] 本堂や山門を地図から見る場合は、下の図の該当する「白抜き文字」をクリックしてください。新たなページとして開きます。 |
[ 境内案内 ]
山門を入り参道を進むと、両側に墓地があり、その中には仏様の彫られたものが多くあります。お参りしながら進むと、すぐに左手に本堂が見えてきます。 本堂に向かう参道が左に曲がるところに、寄進された一遍上人の銅像が立っています。その先には、塩嘗地蔵で呼ばれている地蔵菩薩などが祀られている祠があります。 本堂には、「光触寺」の額が掲げられています。(普段、本堂は閉められていて拝観できないことが多いようです。) 本尊は頬焼地蔵の名で親しまれている、国重文の阿弥陀菩薩立像です。脇侍として観音・勢至菩薩が立ちます。 阿弥陀菩薩は、3月現在修理のため他所にあり、代わりに厨子の中には聖観音菩薩が祀られています。普段は厨子の扉も閉じられていますが、この間は開いております。 菩薩を納める厨子は、鎌倉公方足利持氏の寄進といわれ、りっぱなもので、宮殿を思わせます。 持氏 (1398-1439) は第四代の鎌倉公方で、しばしば京都の室町幕府側と対立します。最後は戦いに敗れ、瑞泉寺近くの永安寺 (現存しない) で自害することになりました。 本堂の天井や梁、柱は鮮やかな色彩で彩られ、質素な外見とは全く別の世界です。 寺宝には、後醍醐天皇宸の「光触寺」の勅額、筆本尊より古いといわれる (上述の) 聖観音菩薩立像、大慈寺のものであったといわれる大きな仏頭などがあります。 本堂の右手は手入れのよく施された庭園です。入ることはできませんが、周囲から季節の花が咲く様子を 拝見できます。 [頬焼阿弥陀縁起]本尊の阿弥陀如来は「頬焼阿弥陀」と呼ばれ、本尊の由来を書いたものに「頬焼阿弥陀縁起」(2巻)があります。これによると、町の局という女性が鎌倉に来た仏師運慶(縁起では「雲慶」)に阿弥陀様の像をお願いし、やがて出来上がり、局は持仏堂に納め熱心に信心しておりました。 ところが、あるときに家の中のものがなくなり、家人の一人である万歳法師が疑われることになりました。局は申しでた熊とういう女性の言うことを信じ、法師を罰することにします。 家人の源次郎に法師の面に火印を押すことを命じ、源次郎は主人の命にそむけず、心ならずも言いつけに従います。 翌日の夜半、阿弥陀仏が局の夢に現れ、「なぜ我が面に火印をさすか」と尋ねます。 驚いた局が阿弥陀様を拝すると、仏の顔の左に火印があるのを見つけました。まさしく、法師の身代わりになられたと恐れおののきます。 仏師を呼び寄せ修理しますが、跡は消せません。隠そうと思ったことが間違いと気づき そのまま世間に知らせたということです。それからおまいりする人が絶えなかったとのことです。 [塩嘗地蔵]以前は、朝比奈切通しを経て鎌倉に入る街道にあったものが、明治三十年にここに移されました。六浦の商人が鎌倉の中に塩を売りにきた途中、商売繁盛を願って塩を初穂に納めたとのことです。 帰りに立ち寄るとその塩がなくなっているので、お地蔵さまが嘗めたのだろうと思ったとのことです。 六浦の方面と鎌倉の間の物資の行き来を物語るものとして貴重なお話です。 鎌倉二十二箇所地蔵巡りの第五番札所です。 [ 歴史 ] お寺の伝えでは、開基は時宗の開祖の一遍上人で、開山は作阿上人です。もとは真言宗のお寺でした。一遍上人が弘安五年 (1282)に遊行の途上に鎌倉に入ったとき、作阿上人が一遍上人に帰依し、時宗に改めたといわれています。 以来 700年、念仏の道場として続いています。 古建築のトップにもどる |