| 境内案内 | 歴史 | [ 寺号 ] 長興山 妙本寺 (日蓮宗) |
[ 所在地 ] 妙本寺はJR鎌倉駅から徒歩6〜7分です。駅の東口(バスのターミナルなどがある表口)をでてまっすぐ進むと信号のある広い通りの若宮大路に出ます。 ここをわたって右(南へ海岸方面)に向かうと鎌倉生涯学習センター、ついで鎌倉郵便局があります。郵便局の先をすぐ左に曲がり、そのまま進むと右手は本覚寺(日朝さま:にっちょうさま)です。( この境内を抜ける方法もあります。 ) その先、道がつきあたるT字路を右に曲がりるとすぐに道が左にカーブし、橋(夷堂橋)にかかります。その橋を渡ると道は右にカーブしますが、左手にはまっすぐに妙本寺にいたる道がありこちらを進みます。 わずか数分で駅周辺の喧騒を忘れるような境内に入り、静かなひと時を過ごすことが出来ます。 [ 妙本寺の古建築 ] 古建築(惣門、二天門、祖師堂) を見る場合は、下の図の該当する「白抜き文字」をクリックしてください。新たなページとして開きます。 |
[ 境内案内 ] 正面の石段を登るか右側の坂を登ると朱塗りの二天門の前に着きます。(写真下) 持国天と毘沙門天(多聞天)が守っています。正面上の彫り物や柱の隅につく象鼻といわれる彫物も見事です。 (ここで拝観料100円を函に入れます) ひろい境内の向うに堂々とした祖師堂があります。右手には、第二代将軍頼家 (1182-1204)の嫡男の一幡 (1198-1203) がここの館で焼死した際、ただ一つ見つかった袖を納めたという 一幡の袖塚 (参照 [歴史]) と呼ばれる五輪塔などが囲のなかに立っています。(写真下 左) さらに右の山手には、石塔が並んでいますが、ひときわ大きく高い五輪塔は前田利家の側室千代 又は 千世の供養塔といわれています。(写真下 右) その奥、祖師堂の右手前の山裾には比企一族の墓といわれる石塔が並んでいます。(写真2段下) 一方、二天門の左手には、日蓮聖人の広宣流布と銘のあるの像が立っています。(写真下 左) そのさきの建物は霊宝殿と呼ばれ、日蓮聖人のお像や重要文化財の「雲版」(建武四年(1337)の銘)など貴重な宝物が保存されています。(写真下 右) 二天門の手前左手の中腹には鐘楼 (写真下 左)、さらに下ると本堂と方丈があります。 (写真下 右) |
[ 歴史 ] 妙本寺は、鎌倉時代、源頼朝 (1147-99) の重臣の一人であった比企能員(ひきよしかず : ?-1203)の末子の比企大学能本(よしもと)が法華堂を建てたのがその始まりといわれます。能本は日蓮聖人の弟子で、この地で滅びた比企一族の霊を弔うためのものということです。 なお、この谷は比企一族の屋敷があったので比企ケ谷(ひきがやつ)と呼ばれています。 歴史はさかのぼります。能本の父である比企能員と頼朝とのつながりは大変強いものがありました。 能員の養母は頼朝の乳母であり、能員の妻は第二代将軍になる頼家 (1182-1204) の乳母になりました。さらに能員の娘が頼家の妻(若狭の局)になり、一幡(将来の将軍の候補: 1198-1203)を生みます。このように比企一族は一方の重臣北条氏を脅かす存在となります。 建仁三年 (1203) に頼家が病にかかると、次の将軍をめぐって、一幡を推す比企家などと、千幡(のちの三代将軍実朝 : 1192-1219)を推す北条家(ほかに、畠山、三浦氏)などとが二手に分かれて争います。結局争いに敗れた比企一族はこの地で滅亡します。一幡は焼死し、着ていた袖だけが見つかったとのことです。([ 境内案内 ] 一幡の袖塚) その母若狭の局は井戸に身を投げたといわれています。 このときかろうじて能員の末子の能本 (二歳) は逃れ、京で学者となり、のちに許され鎌倉に戻り、日蓮聖人の弟子になりました。そして先に述べたように、一族の供養のためにこの地に法華堂を建てたのが始まりです。 お寺の言い伝えでは、日蓮聖人はこの法華堂に比企能本の父能員の法号「長興」と母の法号「妙本」を取って「長興山妙本寺」と命名したとのことです。 やがて日蓮聖人は身延に隠棲し、鎌倉の布教を直弟子日朗上人にゆだねました。日朗上人は妙本寺にいて鎌倉に法華経を広め、東京の池上本門寺の住持を兼ね、繁栄の基礎を築きました。その後妙本寺は日蓮宗最大の比企谷(日朗)門流の拠点として大いに栄えました。 古建築のトップにもどる |