1月自主研修会開催

1月13日、鎌倉ガイド協会の自主研修会が鎌倉市教養センターで開催されました。
テーマは「実朝の首の行方-史実と虚構-」で、講師は当協会ガイド齋藤顯一が務めました。

実朝の死は悲劇的であったため、死に至る疑惑はあれこれと取り沙汰され、多くの歴史学者、歴史愛好家がその謎解きをしています。

こうした「実朝の首の行方」について、真・虚の混じり合った話が語られました。

『吾妻鏡』を基に、まず、「禁忌の和歌」(出でていなば 主なき宿と なりぬとも 軒端の梅よ 春を忘るな)が紹介され、続いて、北条義時の戌神将予言や、鶴岡八幡宮境内での鳩の殺害など実朝暗殺前夜の出来事、暗殺当日の大江広元の涙、実朝が鬢の毛一筋を近習に与える話など実朝の死の前兆が話されました。

実朝暗殺(建保7年・1219年)後、公暁は実朝の首を持って三浦義村邸へ向かいますが、義時の命により殺害されます。『吾妻鏡』には、実朝の遺体は「翌日、勝長寿院の側に首のない遺体に鬢の毛一筋を添えて葬った」とあります。

『吾妻鏡』には実朝の遺体が埋葬された後の首の行方については何も書かれていません。

『吾妻鏡』以外の文献に依れば、実朝の首は武常晴によって秦野に運ばれ、墳墓が作られ、そこに金剛寺が建てられたといわれます。そしてその後、秦野の実朝の頭骨は、政子の命で半分が西方寺の開山覚心に託されて宋にわたり、覚心は医王山に堂を建てて実朝の頭骨を観音の胎内に納めました。陳和卿の勧めで計画した渡宋船の建造に失敗し、宋に渡れなかった実朝は、没後33年、遂に渡宋の夢を果たしました。

実朝の首の行方のキーマン武常晴は、実朝暗殺後2年7ヵ月後に亡くなり、実朝の首は御首塚から高野山へ渡ったとする説があります。史実と伝承・虚構の狭間に武常晴がいます。

今回の研修は、「史実と虚構」を史料・文献に依拠しながら解きほぐしていく明解さがありました。歴史の中に“大いなるロマン”を感じた研修会でした。

研修会には55名が参加し、1月に新しくガイド協会に入会した12期生6名も参加しました。