1月14日(土)教養センターにて、講師は当協会の会員野中実氏による「甲斐源氏の成立と広がり」というタイトルで講演会が催されました。教室には50名程の会員が参加し、この講演はリモートでも配信されて、多くの会員が拝聴しました。

●「甲斐源氏」の呼称は、13世紀の半ば以降、河内源氏の門葉としての家格が幕府内で確立した頃から
●「甲斐源氏」の象徴は武田氏に伝わる「御旗みはた盾無鎧たてなしよろい
●「甲斐源氏」の祖・源義光の東国進出:源頼義の三男、新羅三郎義光、新羅善神堂(園城寺)で元服した。
〇後三年合戦(1083~1087)源義家が陸奥・出羽両国の豪族・清原氏の内紛に介入した。
狙いは坂東への自身の勢力拡大
〇義光は陸奥国菊田荘(福島県いわき市)から常陸国(茨城県)にかけて所領獲得
〇寛治元年(1087)常陸介として、長男・義業、三男・義清と常陸へ移住した。
義光の長男・義業と三男・義清
〇義業が佐竹郷へ 義業の子昌義が久慈郡佐竹(日立太田市)を拠点に自立 → 佐竹氏の祖
〇義清が武田郷へ 「武田冠者」と称す(ひたちなか市武田)→ 武田氏の始まり
・大治五年(1130)常陸国司が義清の子清光の濫行を朝廷に報告。流罪になった。
武田義清が子・清光と甲斐国へ
○義清・清光父子は一族(およそ100人)を連れて甲斐国市河荘(昭和町・中央市・市川三郷町)に
・市河荘を勢力基盤とし、義清・清光(逸見冠者)期には古代官牧であった八ヶ岳山麓の逸見荘へ移住し、
御牧で馬の飼育が行われ 武芸や軍事の鍛錬の基盤になっていた。
名馬の産地・甲斐黒駒の誕生
○甲斐国全域に広がる一族 清光の子供たち
・逸見光長の一族   八ヶ岳山麓逸見郷(現北杜市)の谷戸城を中心
・武田信義の一族   盆地北部・中央部(韮崎市・甲府市・笛吹市など)甲斐の武田郷・武田八幡社
・加賀美遠光の一族  盆地西部・富士川流域(南アルプス市・身延町・南部町など)
・安田義定の一族   盆地東部(山梨市・甲州市など)放光寺
在地の武士との間で結ばれた縁戚関係が一族の広がりになった。
治承・寿永の戦いと甲斐国の武士
○富士川合戦まで・治承四年(1180)
8月  源頼朝挙兵 石橋山合戦
9月  武田信義、一条忠頼が頼朝の使者北条時政と逸見郷で対面
石和いさわ(笛吹市)で再度の使者を迎え、武田信義・一条忠頼・安田義定ら駿河に出陣
10月  駿河国黄瀬河(沼津市)で源頼朝に合流した。
平維盛・忠度らが率いる追討使軍と対峙。武田信義が追討使軍の背後への襲撃を図り
追討使軍が撤退中心は武田信義と子供の一条忠頼・武田有義兄弟
○武田信義と安田義定東海道への進出と上洛
関東地方の頼朝と北陸地方の義仲、両勢力の間で独自の勢力を形成、頼朝と対等の意識
○内乱の展開
安田義定・一条忠頼が源義仲の追討に、義定が福原急襲に参加
武田有義が豊後に、伊沢(石和)信光が長門に侵攻した。
壇ノ浦合戦で浅利義成(義遠)による遠矢の故事   妻・板額御前はんがくごぜん
頼朝による甲斐国武士の排斥
・一条忠頼  「振威勢之余 挿濫世志」との風聞により、鎌倉の御所で殺害される
・武田有義  頼朝の御剣の役を命じられが、有義が難渋し、頼朝に叱責されて逐電
・板垣兼信  年貢不納などにより隠岐に配流するとの太政官符を頼朝が了承
・安田義資  鎌倉の永福寺供養の際、女房に艶書を送ったことで殺害
・安田義定  所領・遠江国浅羽荘地頭職を没収され、抵抗した反逆の罪で処刑
頼朝は、駿河・遠江領国を支配した「源氏門葉」の信義・義定一族を警戒した。
鎌倉幕府体制に属した甲斐国の武士
〇加賀美遠光一族の行動
小笠原(加賀美)長清が頼朝の斡旋で上総介広常の婿になる
遠光の娘が頼朝の子万寿(頼家)の「御介錯(養育係)」になり大弐局の称号を受ける。
〇武田(伊沢)信光と小笠原長清
源頼朝書状 「甲斐の殿原の・・いさわ殿、かがみ殿、ことにいとをしく・・・」
信光・長清は頼朝の支持を背景に武田・加賀美両家の惣領的な地位を獲得した。
「鎌倉中」の地位を確立し 甲斐国在地の御家人と区別
甲斐源氏のひろがり
甲斐源氏の各家は、中世以降、全国にその足跡を残す
東海道・東山道と関東の境界に位置する地の利と、「源氏門葉」という『由緒』が各地の武士の
間に受け入れられやすかった。
今に繋がる甲斐源氏の文化など
小笠原流→ 礼儀作法の流派として知られているが、本来的には弓術・馬術・礼法などの武家故実
全般を含む  煎茶道、茶道にも含まれる。
武田流 → 弓術・馬術・礼法などからなる弓馬故実・武家故実の流派。細川流とも
加賀美流附伝八戸騎馬打毬 → 南部藩に伝わる。

 

講演する野中氏 教養センターにて

                


講師の野中さんは山梨県出身で、郷土愛から甲斐源氏について、自ら各地へ足をはこんで調査され、今回の講演をされました。聴衆としての我々は余り耳慣れない名前が多かったのですが、富士川の合戦で武田信義ら甲斐源氏が大いに活躍し、頼朝の勝利へと導いたのだということで接点を見つけ出しました。
野中さんのご努力で山梨県の多くの小学校の生徒が修学旅行で鎌倉を訪れるようになりました。

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