講師は協会員 松下和代さん

 

去る11月17日(木)、教養センター主催の秋季専門講座が開催されました。今回取り上げられた北条時行は、あるコミックの主人公として人気を集め、最近話題になっている人物です。時行は鎌倉幕府第14代執権 北条高時の遺児で、鎌倉幕府滅亡後、幕府再興を目指す乱を起こしました。この乱は高時以前の治世「先代」と足利氏の治世「後代(当代)」の中間に位置するということで、「中先代の乱」と呼ばれます。(以下概略)

 

北条高時の息子たち・得宗家の男子
元弘3年(1333)の幕府滅亡時に確認できる得宗家男子は4名、そのうち時行(推定元徳元年(1329)生まれ)の兄邦時(推定正中2年(1325)生まれ)は脱出したものの預けられた伯父、五大院宗繁の裏切りにより落命、猶子治時は建武元年(1334)に京都で処刑された。

 

時行の鎌倉脱出
残り2人のうち、高時の弟泰家は自害を勧める得宗被官 諏訪盛高(諏訪頼重)に幼い時行を託して逃亡、幕府再興を志す。時行も鎌倉を脱出し、諏訪大社上社の大祝(おおほうり)を世襲する神官一族・武士 諏訪頼重のもとで鎌倉奪還の機会をうかがうことになる。

 

後醍醐天皇による建武の新政と北条時行による中先代の乱
後醍醐天皇親政下、特に恩賞への不満から各地で反乱が多発。鎌倉幕府と関係の深かった西園寺公宗は奥州に逃れた泰家を匿い、天皇暗殺を企てるも失敗、泰家は行方不明となる。時行も諏訪・滋野氏らに奉じられ信濃で蜂起。後醍醐天皇は京都の防備を固めたが、時行軍は故郷鎌倉の奪還・幕府再興を悲願とし鎌倉に向かい(三浦時継・時明らが合流、5万余騎になったと伝わる)連戦連勝、建武2年(1335)7月、足利尊氏弟、直義が守る鎌倉を奪還した(直義による護良親王殺害はこの際のこと)。
しかし足利尊氏の反撃に備えて進発した時行軍は、台風による大仏殿の倒壊で避難していた兵五百余人が犠牲となるという天災による士気低下もあり、鎌倉から撤退、諏訪頼重ら大名43名は勝長寿院で自害した。この鎌倉奪還は僅か20日だったことで「廿日先代の乱」とも言われる。

 

時行、南朝に下り、2度目、3度目の鎌倉奪還を果たす
時行は南朝に下ってまで鎌倉幕府を裏切った仇敵尊氏と戦い続けることを決心し、延元2年/建武4年(1337)後醍醐天皇の勅免で南朝に下り、北畠顕家軍に合流。新田義興(義貞子)と共に鎌倉を守る足利義詮を追い落とし、斯波家長を鎌倉杉本城で敗死させるなど、時行は二度目、三度目の鎌倉奪還を果たす。が、ついに捕らえられ、正平8年(1353)5月20日鎌倉郊外の龍口(藤沢市片瀬)で処刑された(享年25推定)。幕府滅亡から20年を迎える2日前のことであった。共に処刑されたのは北条得宗家被官、長崎氏・工藤氏の子孫。時行が20年間も諦めることなく戦い続けられたのは鎌倉幕府再興を悲願とする彼らの存在も大きい。

 

中先代の乱の歴史的意義
時行を支えた諏訪氏ゆかりの諏訪大社ご祭神、タケミナカタノカミはどんなに劣勢でも容易には屈しない勇敢・勇猛な軍神である。この気概・気骨は時行にも共通し、時行は尊氏にとっては脅威だったと思われる。この乱がきっかけとなり、尊氏は後醍醐天皇に離反、室町幕府の成立・南北朝時代へとつながっていった。
以上、あまり一般に知られていない人物がテーマでしたが、諏訪上社・下社や時行潜伏の伝承が残る大鹿村への訪問レポートや写真も含めて、大変聴き応えがありました。最後は諏訪神の性格の話から、今の大河ドラマの主役、北条義時が兄宗時の敗死以降、数々の危機を経て鎌倉幕府確立の過程で尽力したことに話が及び、時行がその末裔であることに触れて講座が締めくくられると、会場からは大きな拍手が起こっていました。

[広報A]

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