去る12月8日(木)に、鎌倉教養センターにおいて2022年最後の専門講座が開催されました。今回で最終回を迎えるこの秋季専門講座のテーマは、『実朝の首の行方』です。NHK 大河ドラマも終盤を迎え、いよいよ佳境に入るこの時期、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で実朝の死が放映されたのは11月27日です。講演テーマの選定は何か月も前のことであり、このテーマでの講演はとても時期を得たものとなりました。
 実朝の人物像については鎌倉幕府が編纂した吾妻鏡の記述が中心ですが、愚管抄、その他の資料を参考に様々な角度から、実朝の実像・虚像を想起する機会となりました。
 「史実は一つではあるが、歴史は一つとは限らない。虚構も長い時間を経て、これも一つの歴史的な産物である。」との斎藤講師の言葉から講演は始まりました。

【実朝の死の前兆】
1.禁忌の和歌
 「出ていなば 主なき宿と なりぬとも 軒端の梅よ 春を忘るな
 右大臣拝賀式典後に暗殺される実朝が式典前に詠んだとされる
 和歌である。吾妻鏡ではこの歌を「禁忌の和歌」と不穏な表現
 をしている。この後に我が身に起こることを実朝自身が予感し
 てこの和歌を詠んだのではないか、と論じられている。吾妻鏡
 は北条氏が編纂したと言われ、鎌倉幕府の史書であるが、複数
 の写本のうちこの禁忌の和歌が載るのは北条本のみであるため
 、北条本の編者の何らかの意図がここに含まれていたであろう
 ことが示された。さらにこの禁忌の和歌以外にも実朝暗殺の前
 兆と思わせるような事が繰り返し吾妻鏡には記録されている。
2.実朝の特異な気質
 実朝が当時の武家の棟梁にはない、特異な気質の持ち主であったことを以下のような表現で記している。
 1)夢の中でお告げを聞く、あるいは幻覚を見るようなことがしばしば書かれている。
 2)東大寺大仏の再建のために来日した陳和卿に出会い、実朝の前世は宋の医王山の長老であると告げられ、以前
に同じような夢を見ていた実朝は巨船を建造し渡宋を熱望したが失敗。
 3)子のいない実朝は源氏の家名を上げる官位昇進に狂奔。頼朝、頼家に比べ異例の速さで出世。
 4)王朝趣味に耽り、特に和歌に傾注。
3.実朝の結婚
 兄、頼家が比企の娘をもらったことが御家人の間の争いの原因と考えたのか、足利義兼の娘を拒み、京都の貴族で
 ある坊門信清の娘を迎えた。京文化への憧れもあったであろうことが推察される。
4.実朝の後継者工作
 子供の出来ない実朝の後継者として実朝が26歳の時、早くも政子は後鳥羽上皇の皇子を迎える交渉を行ってい
 た。
5.実朝暗殺前夜
 以下のように、事件の発生を暗示させる出来事が度々記されている。
 1)事件の前年、実朝の鶴岡八幡宮参拝に供奉した義時は、夢の中で翌年の供奉を避けるように、薬師如来に従う
十二神将のうちの戌神将に勧められた。
 2)事件の三日前、式典参加予定の源頼茂は鶴岡八幡宮境内で鳩が打ち殺される夢を見た。
6.暗殺事件当日
 1)涙を流したことがない大江広元が理由もなく涙を流したとあり、不吉な予感を醸し出す。
 2)出立を前に実朝は鬢の毛一筋を抜き、記念にと近習に与え、死を予感させる。
 3)出立にあたり「禁忌の和歌」を詠んだ。車から降りるとき剣が折れてしまった。義時はそばを白い犬が通った
幻覚を覚え心身異常となり、源仲章と供奉を交代した。
 そして頼家の子、公暁に叔父の実朝は暗殺され、義時に代わった仲章も殺されるという惨劇は起こった。吾妻鏡で
 は、実朝の死は禁忌の和歌を詠むという彼自身の不用意な発言が招いた結果であるとし、義時が死を免れたのは戌
 神将の指示に従ったに過ぎないとされている。

【実朝の首の行方】
1.実朝暗殺事件
  公暁は実朝の首を持って三浦義村邸に向かったが長尾定景らに殺害された。吾妻鏡には「勝長寿院のかたわらに
 、実朝の首のない遺体とともに鬢の毛一筋を添えて葬った」と記され、実朝に対する記述は勝長寿院に葬ったとこ
 ろで終わっている。一方、実朝の死に対して100人以上の御家人の出家者が出たが、北条一門からは一人の出家
 者も出ていないことがこの事件の背景を物語っている。
  実朝を殺したのは公暁であるが、その公暁に与力した数名の供僧がいたとする記録も残っている。(愚管抄、八
 幡宮寺供僧次第) 当時の鶴岡八幡宮寺には平家の残党も供僧として採用されていたことは興味深いと講師から発言
 があった。
2.斬られた実朝の首
 実朝の首のその後について吾妻鏡では言及していない。他の書によると、
 1)岡山(たぶん大臣山)の山中で首は探し出された。(愚管抄)
 2)公暁は逐電して姿をくらました。(承久記)
 3)吾妻鏡では公暁の死について若干疑念を持っていたようで、「公暁の顔を見たことがないので首検分できない
」と泰時が言ったと記している。
3.実朝の首は運ばれた
 秦野市に「実朝公御首塚」がある。秦野まで実朝の首は運ばれた。
 1)七騎の侍たちが運んだ。(かまくらこども風土記)
 2)長尾定景の郎従の一人である武常晴が運んだ。(「あずまみちのく」唐木順三 中央公論社)
 武常晴は実朝の首を言動が信頼できない三浦義村のところにもって行かず、母の血筋である波多野家の秦野に運ん
 だ。波多野家は後に越前の守護となり、実朝と政子のために永平寺を建立した。
4.実朝の首の埋葬 ― 御首塚みしるしづか ―
 実朝の首は秦野に運ばれ、墳墓塔が造られた。当初は木造五輪塔(現在 鎌倉国宝館寄託)であったが、建長2年(1250年)、そこに金剛寺が建てられ、石造五輪塔に代わった。(秦野市指定史跡)
 1)金剛寺:建長2年(1250年)波多野忠綱が退耕行勇を開山、実朝を開基として、大聖山金剛寺(臨済宗)
を建立した。『新編相模国風土記稿』
 2)金剛寺(江戸):その後、金剛寺は江戸小日向金富村(現、文京区春日)に移転。第二次大戦で全焼。
昭和27年に中野区上高田に移転し、現在は恵日山(曹洞宗)となっている。今は実朝由来の石塔が一基ある
のみである。(『新編相模国風土記稿』、『秦野市史』)
5.公暁生存説と実朝の首
  『武氏系図』によると武常晴が実朝の首を持ってきたのではなく、行方知れずになっていた公暁と常晴が秦野で
 会い首を受け取ったという。
6.実朝の首の更なる行方
  陳和卿から、「前世は宋の医王山の長老であった」と告げられた実朝は渡宋を計画したが失敗に終わった。渡宋
 に備え実朝は近臣の葛山五郎景倫かずらやまごろうかげともに入宋を命じ、彼は紀州由良港で渡航の準備をしていたが、実朝暗殺の報を
 受けて渡宋を断念し、直ちに出家、高野山金剛三昧院の別当となった。
  秦野の御首塚にある実朝の頭骨は、政子の命により入道西入の手で景倫に届けられた。景倫は届けられた頭骨
 の半分を西方寺(後の興国寺)に納め、西方寺の開山覚心に渡宋を依頼した。建長3年(1251年)、覚心は渡
 宋し医王山に堂を建て、持参した実朝の頭骨の半分を観音の胎内に納めたという。実朝は没後33年、遂に渡宋の夢
 を果たした。(『圓明國師行實年譜(東大資料編纂所 『大日本資料』)、 『平安の春』角田文衛、『実朝の首
 の行方』(『秦野市史研究』第16号)、『右大臣源実朝の生涯』(白鳳社 藤谷益雄)

おわりに
 実朝の暗殺というショッキングな事件では、北条義時又は三浦義村の、或いは双方の権力闘争が論じられているのに反して、吾妻鏡では全くその気配がない。
 実朝が「禁忌の和歌」で口に出してはならない事を発したために思いもかけず自らの死を招いてしまったと吾妻鏡は主張している。これを正当化するために彼の特異な性格、気質をことさらに書きたて強調して、暗殺事件に至る雰囲気を醸し出している。そして義時らは神の加護によってその渦中に巻き込まれるのを免れたという設定である。
 様々な文書、それを基にして書かれた史家の書から実朝の夢は常晴→政子→西入→景倫→覚心の手渡しによって、実朝の頭骨が宋に運ばれ達成された。時に実朝の没後33年にあたる、とまさに劇的な終わりを示している。
 実朝暗殺に関する北条氏の作意ともとれる表現、悲劇の将軍の夢を叶えるかの如くの諸文献。ここには史実と虚構の境界すら判然としない。


講演会を聞き終えて
 これまでの実朝の人物像については、鎌倉幕府が編纂した吾妻鏡の記述を中心に語られることが多く、その論調を思い切って私なりに簡潔に解釈すると、頼朝の跡を継いだ二代頼家は武骨で暗愚、三代実朝は詩歌にふけり軟弱であり、源氏将軍は滅ぶべくして滅び、北条家が武家社会をまとめざるを得なかったと、吾妻鏡は北条家主演のドラマの脚本のようにも思えます。
 ナチスのプロパガンダを担ったヨーゼフ・ゲッペルスは、「一度だけ語られた嘘は嘘のままであり続けるが、1000回語られた嘘は真実になる」と述べたと伝わります。(「21 Lessons 21世紀の人類のための21の思考」ユヴァル・ノア・ハラリ 柴田裕之訳) 
 講演会を聴いて、私が以前から持っていた実朝に対するイメージは吾妻鏡の北条本に近いのかもしれないと感じました。歴史は一面から見ただけでは計り知れないと言うことを改めて感じるとともに、なぜ吾妻鏡に描かれた実朝のイメージが今日広く伝わったのか?興味深い講演会となりました。

K.H  

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