6月10日、鎌倉市教養センターにおいて、鎌倉ガイド協会の自主研修会が開かれました。
今回のテーマは「『吾妻鏡』から読み解く北条泰時の生涯」で、講師は当協会員の山村資郎です。
吾妻鏡に書かれている北条泰時の年譜の中から主要な20件の出来事を中心にして泰時の生涯を辿り、『承久記』や『神皇正統記』等の記述も引用しながら、講師の持論を交えて泰時の人となりを解説しました。
泰時は吾妻鏡にもその出生の記録がなく、正確な生年はわかっておりません。また生母についても確実なことは不明です。建久四年(1193)、12才で元服し、太郎頼時を名乗ります。和田合戦で父義時と共に和田氏を攻撃して滅ぼし、恩賞を賜るが辞退します。承久の乱では東軍を率いて京へ進軍し、宇治川の戦いで苦戦しながら幕府軍を勝利に導き、時房とともに六波羅探題を務めました。京都滞在中に明恵上人と親交を持ち、精神的な影響を受けたとされます。父義時亡き後、叔母北条政子の厚い信頼を受けて42才で第三代執権となります。貞永元年(1232)には、武士の法典御成敗式目を定め、続けて評定衆を改革して泰時と時房を理非決断職と定めます。銅銭を通用させて貨幣流通の促進を図ったり、和賀江島の構築や朝比奈切通しの開削なども手がけました。
仁治三年(1242)に没しますが、吾妻鏡には泰時の死について記述がありません。亡骸は常楽寺に葬られ、同寺に墓があります。
鎌倉幕府側に立って記述された吾妻鏡では、当然のことながら泰時を褒める記述が目立ちますが、鎌倉幕府を倒した敵方の北畠親房も『神皇正統記』で褒めていることから、優れた執権であったということができそうです。

          

鎌倉ガイド協会の研修会は、協会員を対象にガイドとしての知識やスキルを高めることを目的に、年10回程開かれています。今回の自主研修会には約40名の協会員が参加しました。

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